うんちく

 

 

心はふわふわそわそわしている。これに荷造り間に合うかとか、母親に話してどうなるかとか。ただ、そんなことはどこ吹く風、調子は良さげ。何でも楽しい。冷静に考えればどうとでもなること。楽しみに水を差すような人はあしらうしかないだろうし。この、水を差してくる最大勢力はきっと自分自身。

 

楽しみについてはまた後で。

 

 

朝ごはんはカップラーメンと梅干ご飯。昼は運試しに出かけがてらなんとなく食べたくなったファミチキと、ハムときゅうりのサンドイッチ。うまい。夜は豚肉と新キャベツと新玉ねぎの炒め物、もやしナムル、目玉焼き半分乗せのベビーリーフ。ドレッシングはマヨポンベースのオリーブオイル仕立て。

 

 

出かけるまでクロノトリガーの実況動画を見ていた。ゆっくり音声って無個性だからこそ中の人の個性があって面白い。原稿を作る人は中の人だし文体とか人柄が出てくる。同じ人を続けてみているということは好ましいのだろうな。文章もそういう風に読んでいる節がある。

 

寒いようなちょうど良いようなそんな体感。天気が良くて道行く人も多い。帰り道、スーパーでお買い物をした後に一車線くらいしかない狭い路地を通っていたら、タクシーに後ろからクラクションを鳴らされる。割と意味不明だがなんとなく心持ちは想像できる。お客さんも乗っていたし、早く消化して次の仕事に行きたかったのだろうな。

 

満月さんの助手席に乗っていると良く出てくる一方通行禁止おじさんはあんまり想像もできない。道交法はそのルールに従う正しさの前に、危なさをなるべく軽減することと、交通の循環を確保することにあるのであって、早朝に間違えて一方通行に入った1つの車をここ違うよってとうせんぼすることではない。たしかにそれで事故が起きれば過失責任にはなりうるけど、その可能性が道を知らなかった人を咎める理由になるのかというと微妙なところ。

 

正しさに侵食されていて社会が委縮しているのというのは想像力が豊か過ぎるか。

 

さておき、でもないか。

正しさ信仰って、物理現象の因果と人間の因果を一致させる誤りから生じているのだろうなとふと思った。物理現象は確かに原因から結果が現れているとされているけど、人間がそれを観測するのは結果から原因を考察して実証していくという手順だし、解明されている因果も結局のところ反証が現れるまでの正論。いや、ドクターストーンは大好き。こういう試行錯誤は楽しい。

 

ただ、これを人間の時間と空間に合わせると、○○だから○○をしている。みたいなことになる。この洞察って正しいように見えるが、個人的には逆だという体感。僕は文章を書くのも好きだし、料理も好きだが、これは好きだから苦にならずにやっているみたいな動機としては観測されない。人間の動きって動機とか意志が起点になっているとはどうも思えないのだよな。いや、そういう世界観も分かるが、この世界って人間を運命論に貶めているような。

 

だから、僕があんまり人に自分のことを話せないというのはあるのだろうな。古参の先輩の人間性好ましいという結果を語っているだけなのに、ここから何かがあるという動機論で捉えられる可能性もある。読書が好きっていうのも何らかの動機があるとして洞察されるだろうし。継続している結果を評価ないし描写して好きと言っているだけなのに、意志が継続しているみたいに捉えられるのはご勘弁願いたいという理由。

 

そういえば、文章のニュアンスについて。僕の昔のmixi時代の日記を読み返した満月さんが、昔の文章はとげとげしていたと言う。たしかに当時は文章によって何かが発散されるおとか、文章は排泄物であるという価値観があったかもしれない。

 

文章が排泄物であるという説は今でも捨てがたい。外に出て行くものは自分から発現されるものだから当然排泄物も含まれる訳で、気持ちとか呪詛の出口として言葉があるのもたしか。でも、負の感情を言葉に載せて排泄したところで解消される訳ではなく、言葉によってより強固になるだけ。

 

いまの文体が柔らかくなっているとたら、表現とも排泄とも別のところで書く文章を見出しているから。書いたところで疲れないし減ることもない。ある程度洗練された漂流文。別に現実界で接している人が読んだところでどうでもない。読ませてどう反響するかが気になるだけのこと。

 

満月さん界隈をどう母親に説明するのかというところでつっかえて居るのも、どこまで話すのかというところ。別に嘘を付くとかではなく、どこまで通じるかの話。界線がずれたのは一年前の飲み会の後に溝に落ちた頃でしたとかの馴れ初めとしての現実は語れないし、適当に通じるように話すしかない。

 

もちろんストーリーは考えている。いとこがマッチングアプリで結婚して別れたからそういう事象は把握しているから、僕がこの人と一緒に居ることを決めたのだと断言すれば水は差さないと思う。満月さんの家族にももう会ったというかどうかは嫉妬するかもしれないから微妙。

 

同じ軸に住んでいれば言葉は一元化されているから現実として話せば良い。ただ、現実、現象、事象、事実、それぞれニュアンスが違う。

 

事実が最も強固だがここには証拠がセットだから日常生活ではあてにならない。事象は証拠がない現実感であって、科学原理も社会規範も特にない。現象も同じ感じだがもっと感覚的。カントさんでいうところの直感みたいな。

 

当然のことながら人に真実は把握できない。

 

で、現実。これは事象とか現象として感得した外界を解釈・評価して人生劇場として辻褄を合わせたもの。生きていく舞台だからもっとも生に近い部分。でも、現実観ってほとんど解釈に依っている。僕が愉しいのは現象とか事象が楽しいのではなくて、それがどうあれ楽しんでいる自分であって良いと解釈したから。

 

誰しも経年すれば持論が生まれる。

1Q84で言えば、牛河さん(この人好き)が、世の中の人はほとんどものを考えていないから、より考えることで上手く生きられるとか。この現実観も経験則に基づく解釈。これが悪いとも思えない。時間を費やしたことで対価がありうるというのは普通の感覚。

 

僕の持論は、もっと変。

人には体感でないものを想像で埋める能力があるのだから、自分が部外者だとしてもその人のことを考えて良いのだなという感じ。自分がその人の立場だったらみたいな道徳観ではなくて、自分とは別生活圏の人のことを対価関係なしで考えて良い。同情は一番失礼だからしない。

 

満月さんは僕を淋しい人だと評価している模様。たしかにそれはありうる。僕が相手を大事にするのは自分にとって何かが返ってくるからではなかったし、その関係性としての現実観から解釈されると僕は随分とよく分からない人とされていたに違いない。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。