肌感

 

 

本日は若干解釈が弱気だった。朝一アプリで運試ししていて、こりゃ当たるだろうというのを外したことから始まる。というのでもなく、弱っているとも違ってなんとなくためらいが起こると連鎖的にそういう世界が目に入る。世の中よくできている。

 

仕事終わり辺りには持ち直して、夜ご飯に何を作ろうかでうきうきしている。

 

 

そんな気分でもやっぱりピンクの絨毯は綺麗。昨日より増えている。見える景色は変わらない。心があんまり浮かないなというだけ。

 

 

仕事は、別にどっちでも良いことなのだし僕がなんとなく避けたかったというためらいもあって、悪く解釈してしまった案件がある。他の先輩とか同期だったら残しておいた案内予定でなんとかさばいでくれそうな気がしたが、お洒落な先輩はさばいてくれなかった。たしかに文字量は多かった(この日記ほどではない、全文で300文字くらい)し、難しいのも分かる。

 

気分が良ければここまでひっかからない。この人は仕事上悪いことしていないし、手抜きでもない。全体の仕事を減らすのが仕事の目的ではないのは普通の感覚。もうちょっと時間軸がずれていたら違う人が受けていたかもしれないという意味では、僕の仕事が遅かったのかもしれない。

 

行動のタイミングとかによって世界線はずれていくし、捉え方が現実を決めているし、世界が自分次第というのはこういう意味合いなのだろうな。

 

 

お昼ご飯くらいに復調してくる。工事公園の遊具がオープンしていて子供達がなごやかに遊んでいる。森成分と同じで良い感じの雰囲気は栄養分。波長がよろしい。どの子供も喧嘩していないし、トイレも綺麗になっているし、カフェっぽいところで大人も和んでいるし。人は外界に肌感で影響される動物だなぁって感じる。中身は守られているのかもしれないけど、肌は外界にどうしようもなく触れるから、ここの波長は影響するし影響される。中身がどれだけ良い人物だとしても肌感が合わなければきっと無理が出る。

 

後半の仕事は調子が良くなってくる。

お腹が空いてきて、何を食べようかと思案。大根が半分残っている、煮物が食べたい、イカと煮物にしたい、という衝動が起こる。この衝動を抱えてスーパーに行ったら豚バラブロックが半額でそっちに持って行かれる。人参も加えて煮物にした。こってり感はほとんどないが、脂肪分で胃もたれするかもしれない。美味しかったから後悔はない。

 

ここまでで日記的日記の終わり。

 

やれやれ。

 

満月さんが昨日の日記を読んだあとにもっと文字数を書けという感想があった。たしかに毎日書き足りていないという感じはある。文字数(時間)制限というより、思想制限めいたものはあるかもしれない。いや、もうだいぶぶっちゃけているからここに書いてはいけないことなんてほぼなさそう。人の目に触れてはいけないことが中にあるということもあんまりない。あんまり卑猥だったりグロテスクなのはやめとこうとは思う。それを読まれたところで僕の文章を読んでいる人が僕の現実の世界線にずれることはほぼない。ここがあったとしても、気にしていない。

 

そういえば、お昼にお弁当を食べたあと、なんだか悔しい気分になっていた。午前中に知らない知識のせいでちょっとつっかえたところに対して。ただ、この知識って調べたり考えたりで届くものではなく、単に参照するための権限というか立場でしかない。もっと知識を取集せねばという衝動が起こる。僕の中では知ることは世界を狭めるものではなくて、世界をもっと柔らかく捉えることができる道具だから、知れば知るほどもっとゆるゆるになれるだろうなって。

 

この感覚と割と近いのが1Q84の牛河さん。牛河さんの容姿は凄くグロテスクみたいだが、頭はとてもクリアな人。人と関われなかった分、本を読んでいた。近い部分。知識は人にひけらかすものではなく自分が考えるためのツールでしかないというところ。容姿の問題でそれをするしかなかったというところが若干暗い。もう少し自分の容姿がまともだったらとかの世界線を想う。ここも若干近い。

 

僕は逆の意味であんまり自分の容姿と馴染めなかった。大学時代の友人は硯の容姿と入れ替えられたらもっと遊んでいたとか言うし、中学の同級生の女の子は硯の顔を不細工だと言う人はあんまり居ないとか言うし。

 

たぶん容姿論で言えば、僕は得してきた人だとは思う。スポットライトが当たるほどの上限突破ではないが、相手に対して警戒心とか不快感を与えない(これらを与えないというのは男性性において結構ハードルが高そう)。

 

ただ、この容姿論、僕の自尊心をひとかけらも補充してくれなかった。こじれていると言っても良い。どんな外面の評価もほとんど他人事で、内部まで響いて来ない。いまはもうそういう見てくれでは評価されない年齢になったから逆に瑞々しくなっている模様。だって、その前に僕が何歳なのかの方が外面になるから、こっちが担ってくれる。

 

文字だけの関わりの中で外界情報を持ってこないといけないのは、その外面界で生きている自分が本質だからという自意識なのだろうが、外面を文字世界に持って来ても住民にはなりきれないような。文字世界のプラットフォームはほとんど完全に自由だから何を持ってきても問題ないところ。自分に近そうな言葉とか完全に離れている言葉とかでエンターテインメントするのも自由。

 

これってなんとも演劇感がある。

主人公(書き手)に移入する、みたいな。これも1つの暇つぶし。

 

 

今日思いついた突拍子もない発想。

自意識って無駄というか抑制にしかなってないか。

 

僕は存在の定義を自己が自己であるという意識においていなくて、世界がどう見えるかという感覚重視。この見え方において、いちいち設定されて設定した自意識にお伺いを立てることがなくても、自分の存在は固有でしかないよなって。

 

たしかに、事実として自分が社会に認証されるためには何か立場とか褒賞めいた椅子を取らないといけない。でも、取ったところでそれが自分であるということを現象として固有だと認識できない気がする。

 

この辺りは好きに設定して良い部分だとおもったり。

 

文字数とネタバレで満月さんに怒られるかもしれない。

でも、怒り案件が起きたとしても失われない人だという認識が安泰。僕が僕で居ても大丈夫だという感覚は童貞かもしれない。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。