まるっと

 

 

畳の上に直置きで日記を書いている、この部屋最終日の日記。広いし寒いし感傷が凄い。18歳で実家から出た時間よりは短い。ここには何者かになる過渡期のつもりだったのになんだかんだ僕がぐずぐずして居残ってしまった。だからといって悪いことばかりが起こった訳でもない。

 

来たときは3月でかなり寒かった。蒲団もないし上着でなんとか寒さをしのいで寝た。比べたら1ヶ月の違いで今回は毛布もあるから全くもって好転している。

 

ほぼ裸一貫。望み通りの展開。引っ越しで移動する物量より捨てていく物量の方が遥かに多いのだから、その分他者の労力がかかるのは当たり前。こまめに捨てて居たり、時間をかけて業者を吟味したりすればもう少し安く済んだかもしれないが、そういう未来の現実に備えてコツコツできる気質ではないし、その時間を費用に代えてなんとかなるのであれば問題ない。今回もぎりぎりとは言えなんとかなった。この学習は次回費用を節約することになるかは不明だが、糧にはできる。そりゃそうだ。時間が迫っていると余裕がなくてリスクがある。そのリスクは貨幣を重ねることで補充される。

 

 

いやはや、普通に泣きそう。これからどうなるかに対する不安ではない。未来に対する不安はほとんどが毒で、これを何とかするのは行動しかないのを学習したから。引っ越しとか廃品回収とか他人に何かを頼らなくても良いし、自分が動けば動くだけ未来は変わっていく楽しみ。そうではなくて、もう去ってしまったものものに対する感傷。

 

僕は物には執着しない人物なのだが、物の機能ではなくて付随した思い出というのは残っている。廃品撤去でぽんぽん三階から投げ捨てられていた本達はほとんどが参考書で、その時間が楽しかったとは言えなくても、そこに生きた僕は僕だし。

 

機能的に使わなく、遣えなくなった物々には僕の一部が付着していて、それが去ったあとの身軽さには心地良さと虚ろさの2つの意味が読み取れる。

 

まぁ僕はもっと感情を出せば良いと想っているから、泣くことが弱いとも思わないし笑うことが強さでもないし、もちろん常に朗らかなのが良いでもない。大事なのは、自然と湧き出ようとする感情を、変な意識(社会倫理とか)でせき止めないこと。社会がせき止めているのは害悪になる行動(結果)であって、感情そのものではない。

 

 

そうやって紐解いていくと、本日の感情の円グラフのトップは感謝という感じ。感謝は感情なのかというと意見が分かれそう。喜怒哀楽で分類したら喜びに含まれそう。ただ、感謝って、変な話、何かを貰ったことに対する有難みであって、ポーズで決まっている節もある。機能に対する恩で起こるのもたしかに感謝だが、ほんとうに内面が喜んでいるかどうかって微妙なとこと。別れ際に手切れ金みたいに何かを貰って嬉しければ機能への恩だし、別れることの方が勝っていたら哀しみだし、それで縁が切れると思うのかーふんがふんがだったら怒気になるかも。

 

感謝って喜怒哀楽のどの分類でも起こり得るのか。

書きながら発見していくのが僕の文体なのかもしれない。

 

 

お金はかかったのだが不用品が望み通りほぼなくなったのは回収業者さんかなり善処してくれたのではと思っている。これがお人良しの思想(破滅思考)なのかもしれないが、お金しか損なわれずに結果が問題ないのであれば、そこを意識の焦点とするものではないという思想。吟味するのほぼノータイムだし、その時間で僕はこうやって日常生活を途切れなく行えているし、こっちの方が遥かに大事なのではという立場。金銭より時間の方が重い。とはいえ、僕は時間性に対してもあんまり一般的感覚ではないかもしれない。

 

引っ越し業者さんは見積もり料金きっかりで、さすが前もって予約しただけある。少し荷物は増えたのだが、問題なかった。小サイズだからどうしても2箱ずつ運ぶ流儀らしく、僕が懇切丁寧にぎりぎりまで詰め込んだ本群が筋肉にダメージを与えているみたいだから、なんとなく手伝いましょうかとなって、玄関先まで運んだ。僕も極貧時代、引っ越しの派遣とかをやったことがあるから、靴を脱いだり履いたりする時間ロスが大変よなーって。この時間ロスの観念は個人宅の引っ越しより、企業の事務所移転で培っている。膨大な物量を運ぶとき、エレベーターのボタン操作をする人の手腕によって終着時間がかなり変わってくるとか。動線が大事。

 

玄関先に運んだところで安くなるとかはないのだが、終わりが早くなった。業者さんがしんどいしんどい、筋肉がぴくぴくすると言っていた。詰め方が上手だから底が抜けることがなかったとお褒めの言葉をいただく。朝は激しく雨が降っていたのに、物が動くタイミングではどの時点でも止んでいた。どれだけ上手く詰めていても段ボールが水分でふにゃふにゃになったらどうしようもない。恵まれ過ぎは当たり前でよし。

 

 

全部綺麗に片付いて、最終お風呂。素人仕事で綺麗にできる状態ではないのだが、最後にできるだけお掃除。感極まって、ありがとうありがとうって心の中で唱えながら(なんなら声にも出ていたかもしれない)スポンジでごしごし。

 

(学習したから新居では生活の中でお風呂掃除するタイミングを作る。家事ではなく日常として)

 

 

僕は結局こんな奴なのだな。お人好しとは違う(引っ越しの手伝いで腰痛いが笑)し、特に執着もなく、感謝でだいたい生きている。どこで退場してもおかしくなかったタイミングがいくつかあるのだが、健康診断1つだけBであとA(こういう完璧でないのも僕らしい)で五体満足で生きているし、生き永らえられているからこそ次の世界線で遊べる。

 

これをスピリチュアル的な方向に捉えられるとずれる。魂の修行みたいなステップアップではなく、世界線が移動する度に楽になっているし、努力も要らなくなっているし、都合が良い。修行してこうなれる訳でもない。

 

こういう文脈で、僕は歴代の恋人さんに全員感謝している。僕が歴代で執着した長く過ごした恋人さんに対しても、感謝を返し切れていないという感情が3年程滞っていた。村上さんの言うところの100%の恋愛感情なのかというのは村上さんの物語に侵食され過ぎていた。

 

僕の物語にはその人が欠けたら虚ろになる部分があるという人格はないらしい。

感傷と感謝はある。その人が居る関係の彩も覚えている。

 

宵顔さんは恋人になったこともないが、僕がこの文章体で在って良いことをナチュラルに受け入れていてくれた模様で感謝。実際どうだったのかとは別に、すげぇ人だなという感じ。この世界線で遇う機会があるのかは分からないけど、次回があるとすれば、緊張していない硯の実物をお見せできると思われる。

 

実物と関係することって、単に認知しやすいし更新しているだけで、ほんとうに関係できているというと微妙なところ。実体験で言えば、義務教育でとか高等教育の学校機関で過ごしてきて、日常的に関わっていた人のこと、僕にはとんと分からなかった。なんなら親兄弟のことも分かってない。職場の人もなんか良く分からないが、直近の職場の人達は合っていた模様。

 

現実的な脳の処理能力で言っても、自分の情報の更新すら把握できない(もしくはしない)のが脳なのに、日常的に接している人の外界としての情報量をまるっと吸収できる訳が無い。全部記憶できればサヴァン症候群だけど、その記憶は認知には結びつかないらしい。

 

覚えている量が相手への想いの重さになるのであれば、僕からした父親の存在は記録がほとんどないから、薄っぺらいとなる。これを誰かに語ったら無駄に同情されるから言わない。「流星ワゴン」的になりそう。これも個人的には感謝の文脈として残っているだけなのかも。母親に感謝できるのが、母親としての役割でしかないというのもなんとも。

 

 

そうして、いま最も感謝すべき存在は満月さん。

割と卑屈傾向がありそうなのだが、僕の文体と現実を一致して捉えてくれる稀有な人。だから僕はどんどんと気楽になっている。気楽になっているいるからこういう人が現れるという因果が逆転することは人生劇場にはままあること。

 

これを、何か相手が現実的に扶けてくれるみたいに捉えると一般的になるからよろしくない。寄りかかれるから良いとか、条件がどうとかではなく。

 

単に楽しいとか言語すると、その刹那だけ良ければとなりそうだが、一緒に居ることに不安がないというのはどうだろう。いつかいなくなるかもしれないのは退場がある以上当たり前だが、そことは別に、なんだか大丈夫なのだろうなという感じ。

 

キャンプファイヤーの燃え上がりは興奮するけど、日常的には暖炉が心地いい。

 

これも何か違う。

 

いや、暖炉では在るが。

 

 

このタイミングでも次に何を書くか迷うとは、なかなか人生を楽しんでいる。

 

 

ちょっと長くなったからここまでにしようか。

情報でない文章を出版しなくても書けるようになった昨今、僕が文章で響いてくれていれば良いなというのは、陽キャではない陽だまり的な音。

 

 

達成していくタスクとか、呪詛とか読むと他人事的に非日常を読むのでもないし、出来事で他人はこういう風に生活しているのだろうなでもない。

 

この人の文章読んでいて自分も楽しくなるという文章。在りそうでほとんどなさそう。

 

 

はい。

 

明日はきちんとした机で書きます。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。