んなわけ

 

 

映画のパプリカを見ながら、これもフロイト精神分析がモチーフなのかと考える。この映画、むかーし映画を貪っていた時期に観たのだが話の筋が残っていない。映像が綺麗だなというイメージのみ。

 

台詞の音が小さすぎて他のことしながらだと聞き取れないから途中で四畳半神話大系に変更した。森見登美彦さんのアニメはおそらく映画時代よりもっと後に作成されていたが、原作はちょうど大学生のその頃だった。言い回しのリズムと言葉選びに衝撃を受けた。唾棄という言葉を教えてくれたのは四畳半神話体系だった気がする。

 

どうでも良いが、僕の文章って音読に耐えるリズムになっているのかな。というのも、満月さんがここの文を音読しようとしてくることがある。なんとなく恥ずかしいからシャー! と威嚇して強制終了させるのだが、そもそもなぜを目の前で読まれるのが恥ずかしいというのはよく分からない感情。そういえば、最初に酔っぱらったときも恥ずかしいと言っていたそうな。剥き出しの自分が他人の中にあるうちは問題ないが、自覚されるとそれは出してはいけない部分だろうという恥の観念が出てくるのか、どうなのか。

 

 

バラエティー番組が好きなのかと聞かれた朝。楽しそうに見ているからという観測らしい。見たら楽しいけども、無くても足りないと思わないというのは好きではないような気がする。見かけると嬉しいという意味では5月31日現在の紫陽花まみれの此処の街並みの方が随分と好き。

 

本日やっていたバラエティーは、娘の旦那にしたくない人ランキング(こちらは省略)とか、後輩芸人から辞めたいという相談されたときにどうやって引き止めるかという実演から、どの先輩についていきたいかというランキング。引き止めなきゃいけないという設定自体で割と現実離れしているがそれがバラエティーだろうからともかく。

 

誰が良いかと満月さんに聞かれて、僕の中では大吉さん一択。答え方とか答える内容より、まず開口一番「足崩そうか」と言う感じが良かった。

 

まぁそもそも相談しない、というかできない人だから、前提から破綻している訳で。相談トラウマみたいなものがあるのと、完全に自分で決めてやったことって誰にも他責にしなくて良いところと。相談を受けた側としてということにしても大吉さん一択感。こういう実演系とかどっきり系はなんとなく居たたまれない気分になる。一方的な観測者として楽しめないというか。

 

相談トラウマの話は相談をする相手を間違えた自分に対するトラウマであって、別にその人に恨みはない。関わらないように切っただけ。結果的にはこのいまに繋がっているから何の恨みもない。たぶん普通の領域の人だと

 

 

ここからもう少し。

 

大吉さんの相談は理詰めだから、理詰めが良いのかと言われた(そういえば満月さんは誰の相談が良かったのだろう)。僕が相談受ければそうだろうなという感じというだけ。相談をする人って、ほとんど答えが決まっているのが常態だし、方向性を決めて欲しいというのが多いような。

 

 

かつて、あまりに流され傾向だった時期からアパートにやってくる宗教の勧誘の話をしたら、集会には行くなと勧告された。僕としては面白そうだからという意味しかなかったのだが、そうすると、その誰かは自分の宗教に僕が流されていることを自覚していた説がある。

 

別に人生劇場の基準を何に置いても問題はない。ただ、問題がないのは個人の領域であって、社会とか世界とか広くなっていくと事情が変わって来るのが分からないのは結局社会に抵触していく。

 

アンダーグラウンドの被害者側のインタビューがあとがきになったから、今度は加害者側のインタビューの方を読み始めた。実行犯ではない単なる信者が1人目なのだが、偏屈具合が面白い。世界が理論的に説明できるように解明することによって宗教を科学化させて、万民の不安が拭えるという思想。気持ちはとても分かる。というか、世界をてきとーな主観で一般化している人より遥かに誠実だと思う。

 

この生真面目さを受け入れる土壌が某宗教にはあったのだろうと思う。犯罪は犯罪で処罰されるのが社会だが、実行犯ではない信者に罪はない。

 

村上さんのインタビュイーが面白い。世界は科学では収まり切らない領域があるからそこはどうにもならないよねって言っているのに、頑なになっている。

 

 

あんまり書くのもアレだが、世界が改善するとか自分がもっと良くなるみたいな考え方は外から処方箋を求めているし、ここに集まってくるのが宗教だったり科学だったり啓発本だったりしそう。

 

何かで自分が埋まるというのは言い過ぎだけど、経験によって改善されるという考え方は結構悪手な気がする。僕は別に理詰めでも直感でもない根拠がないとこで生きているが、だからこそ理由がある何かの理由って、ほんとにそれなのかという感じがする。

 

フロイトさんの精神分析の話がお風呂読書のどこかの本でまた出てくる。文学理論だったかな。言い間違いとか、度忘れとかって、無意識がそこを阻害しているからだという説。割と分かりみ。僕はもうおそらく鍵を落とすことはないが、昔はよく落としていた。防犯上やばいのだが、鍵が無い状態で過ごしていた何日かもある。

 

何かを引用するとき、文章であれば推敲するから原文ママにしていると思うが、おそらく同じように話しながら引用しようとすると微妙にズレてくる。これって暗記力がないのではなくて、何か疎外要因があると解釈した方が分かりみ。だって人間の脳の容量ってほとんど個体差がないらしいし。それが種というもの。

 

発する言葉と発さない言葉と、どのタイミングで発すかみたいなことで人となりは読めそうな気がする。もちろん、読むことで科学ではないから、客観性も事実性も特にない。たまたま事実と一致することはあるかもしれないが、全部一致はありえないから、性格診断の方が精度は高いかもしれない。

 

なんかもうここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。