はたけ

 

 

 

夕方の帰り道、晩御飯をどうしようかと両側が畑に挟まれた二車線道路の歩道で考える。キャベツ畑があり、玉ねぎ畑もある。ふと思いついた酢豚。LINEで報告してスーパーで買い物した後に、満月さんから通話が入り、メッセージでも酢豚苦手と送られてきた。あれ、酢鶏は大丈夫だったようなと思いながら、あぁ豚肉の臭みが苦手なのだったと思い至るがもう遅い。我が家にはカレールーも置いていない。

 

実家の食生活のメインは豚肉だったから、消去法として豚肉が選ばれる傾向がある。頭が働かないとこうやって惰性に流れてしまう。

 

気を遣って、酢豚で良いと言われたため、なんとか臭みを抜くように料理酒、塩コショウ、しょうが、にんにくで下ごしらえしてみた。豚肉が苦手な人でも食べられる酢豚ができているのか、なかなか責任重大。(?)

 

 

 

さておき。初めから。

 

第一次起床は漫画を読んで夜更かししたためなかなかちゃらんぽらん。目覚める時間は変わらないが眠くて頭が働かないのではなく、起きてもあんまり働いていない感。満月さんが何か洗い物をしている音と聞きながら二度寝。頭が動いていたらSPECの続きをGEOで借りる為のポンタカードを置いて行くように声をかけたはず。これから仕事に行く準備をしている人の頭の中の余暇における優先順位は低いから満月さんがそれを忘れるのも当たり前。

 

寝不足だからといってごろごろしている訳にもいかないピンポイントの日。前月予約しておいた髪を切りに行く日。寝不足くらいでは歩くのが好きなのは変わらない。40分くらいで着く。なかなか暑くて汗がにじむ。この前後に、満月さんが仕事終わってから借りに行くとのメッセージに対して、だったら職場に取りに行きますわと返した。仕事日に無駄に帰りが遅くなるよりは僕が移動した方が良い。

 

髪切り場でもやっぱり頭が働かない。あんまり会話が続かない。もちろん先月行ったときにテニスに行くとかマリオの映画を観るとか言っていたことはどうなったか聞いたが、当たり障りないなぁと我ながら思う。美容師さんは忙しいようで、最後のシャンプーが初めての女性だった。こちらの方との会話は更に酷い。いや、客が店員の展開するコミュニケーションを気にする必要はないはずなのはともかく。力が凄いのかピンポイントで良いところに当てているのか、担当の男性の方より頭皮に利いている感じだし、肩のマッサージも痛気持ち良かった。

 

肩凝っていないようですねと言われた。たしかに最近は凝ってないと気付く。女性シャンプー師の方は肩凝りが酷いらしく肩凝りがない生活って幸せですねとも言われた。思わず血行(が悪い)? と返してしまったが、個人的な体感だと、首とか肩が凝るのって、頭の中身が凝り固まっている時だと思っている。いま触る首は全然固くないのだが、当時は無茶苦茶固かった。触るだけで痛い。常に世界に緊張していた感じ。いまはずいぶん肉が緩んでいる。横隔膜周りは締まっているけどもこれは緊張ではなくて、丹田に力を入れないと相手に声が聞こえないというだけ。声に重きを置いていないという証左。聞き逃されたら別にそれで良いというのは、声と存在を一致させていないだけ。だから、騒がしい飲食店が苦手。発話する気がなくなる。

 

ふと思った美容師の話。いま行っている美容室ってマスクを付けたまま切るスタイルなのだが、髪を切るって顔の造形も含めたバランスの職人芸なのではって。いや、外に出ているときはマスクを付けていることが多いから、マスク状態を前提として髪を整えるということにしているとも考えられる。そこらへんの矜持ってどういう風に考えているだろうなといことが気になった。専門家であればマスクの下の造形も透過できるというのはありうる。

 

 

それから電車で職場に向かう。この辺のJR沿線緩い。チャージ場がなくてうろうろしていたら、声が聞こえてきて一回改札出て券売機でチャージして戻ってまたタッチしてくださいって。ここで無賃乗車したらもうICカードを使えないし問題ないのか。土曜日で混雑している職場。人酔いしないようにカードだけ渡してもらってすぐに出た。

 

帰りはこの駅だったら徒歩圏内(50分くらい)で帰れるしゲオにも行けるルートを発見して少し遊んでから歩く。世の中日常として歩いているのはペットの散歩をしている人くらいしか居ない。ここで冒頭に戻ってきた。

 

何かのお店の駐車場から車道に出るときに、歩行者なんて想定されていないからだいたいの人が歩道を閉じている。でも、1人だけわざわざバックしてくれた。歩行者としては車より遥かに小回り利かせて移動できるから問題ないのだが、わざわざバックをした人は日常で頭を使っている人だなとは思う。

 

 

一般的に頭を使っているって、いまやコンピュータがやっているような記憶とかになる。たぶん最もは処理。現実の物事をスパンスパンと対処できるのは頭が良いという定義な感じ。たしかにこういう所作をされると凄いと思ってしまう。ただ、いまやこれは頭が良いというより要領の話であって、その場を上手く自分のフィールドに持ち込んでいるというだけ。いや、このだけでもそうとう凄いことなのだろうが好みではない。だって、その場にそぐう言葉しか言えなくなる。

 

個人的な頭を使っているかどうかの指標は想像。バックしてくれた運転者はこうやって歩道を塞いでいたら歩く人が直進できないよなと自分とは別の立場を想像したという意味で頭を使う運転者だと思う。

 

想像領域の頭の培い方はどれだけ実体験を拡げたとて起こらない。実体験だと経験則に入るから、それ以上の他の人が居るということではなく、自分が接した人の中でのことになる。読書がそこを担っていたし、いまも本読みの中にはそういう人が居ると思う。そういう人は研究者になるのかもしらん。

 

かといって、読書家が想像力を培っているのかというと微妙なところ。

自分がどうかという眼で見たら読める本はかなり狭そう。いや、別にこれが悪いとも思わない。別にソクラテスみたいにあなたにとって読書とは何ぞやという定義を聞く気もない。僕もほとんどの概念に定義なんてできていないし。

 

あと、頭の使い方のもうひとつが創造。これができたところで実生活にはほとんど役に立たないし、個人の領域。僕もここで使いたいところではあるが、どれだけ勉強したり本を読んだりとは無関係の余白がもっと拡がらないと起こらないだろうなという感じ。

 

眠いのでここまで。

 

おやすみなさい。