ばばば

 

 

 

良く寝た。そして二度寝でもたくさん寝た。

睡眠量が増えるのは調子が良いとは言えないが、寝られないよりはかなりマシ。

 

覚醒した後、中途採用のeラーニングと適性検査をすることにする。個人情報と健康の申告は問題なかったが、適性検査の方のログインで引っかかった。めちゃくちゃ印象悪いだろうなぁと思いつつどうしようもないので採用担当者にメール。面接までこぎつければ実際の担当は別の人だから問題なさげだが、どうなることやら。

 

ビジネスメールはあんまり使ったことないから神経が摩耗する。

内容は簡潔にという指標があるにもかかわらず、挨拶の枕詞とかクッション言葉とかを使うのがマナーだとか。

 

個人的には仕事上の無駄なしきたりは合理性がない限りどんどん削って行けば良いと思っている。前職だと、読んだら分かる紙媒体の申し送りを10分前の朝礼で上司が口頭で説明するとか。それぞれ仕事用のPCがあるし、申し送りの文章データは共有フォルダで確認できる。読んで分からなければ個別に質問するようにした方が効率的であって集まって挨拶するのは無駄な感じ。

 

とはいえ、ビジネスメールにおける意味を持たないマナーの言葉は排さない方が良きという立場。面倒だし文字数を増やして相手が読む量が無駄に増える。ただ、これって対面における身だしなみとか態度の代替物になっているとも言える。場における作法って日本古来の文化かもしれない。ちゃんとその場に存在していることをわきまえていますよという動きをメールで表現するためには、こういった一種の面倒な手続きを要する。

 

いまどき文例はいくらでもグーグル先生が教えてくれるし、それすらもできない人物を場から排除できるという用途もあるとすると、合理性はいまだに失われていない。面倒なのは確かだが、そのうち面倒さがなくなって当たり前になるのだろうな。

 

もちろん本質は中身であるのは確かだが、中身を見られる前にきちんとした振る舞いがあるというのが日本文化という結論。ただそうしないといけないというだけであれば面白くない義務だけのことになるけども、こういう風に解釈すると世界が拡張するような(あくまで気分)。

 

 

哲学なのか宗教なのか知らないけども、人の精神世界は3次元で把握できないから「受肉」という儀式というか投影が必要なのだろうなって。変な話ではなくて、言葉も振る舞いも中身の投影(表現)であって、中身そのものではないというだけ。こんなの当たり前だということをほんとに腑の中で自覚している人はどれほどか。

 

僕としてはこの発見を前提とすれば、今度あの2人がこの部屋にやってくることがあればウェルカム小躍りしても問題ないかもなという説になる。別にどんな場も形成されていないし、僕が穏やかなのは、人生上場を設けない方が楽しいと気付いたから。

 

 

抽象的になってきたから、少し具体に戻して、刑法上の性犯罪も自分の肉体という場を侵襲することを犯罪としているという共通項。不同意なそういう行為が全て犯罪になるという主張がちょっと盛り上がったが、これは目線が社会ではなく自己である。自己の肉体を慰みものにされたかどうかは同意・不同意が無関係なところで、同意したとしてもそういう解釈は起こる。刑法が問題としているのはそういった解釈が曖昧な領域ではなくて、無理矢理肉体に侵襲されたかどうか。

 

文言ではジェンダー的にフラットになったようだけど、立件的にはきっとそうはなっていない。無理矢理という要素の中に暴行又は脅迫という手段があって、女性が犯人で男性が被害者の時に暴行の要素が成立するとすれば成長期のときだけだし。

 

まぁ本当に難しいのは、一定の親しい関係には開放されうる領域だから。財産犯にもややそういうところはなくけども、友達に財布を盗られたらよほどのことがなければそりゃ犯罪。窃盗罪になるのか横領罪になるのかはともかく。性的な行為は子孫繁栄上やんわり推奨されていることだし、よほどのことがないと犯罪にできないという意味で、暴行又は脅迫を要素とするしかない。

 

外国には不同意を要素としている国があるというのをどこかで読んだが、何をもってそれを証明しているのかが気になるところ。これを犯罪とすることで、自由が増えているか減っているのか。

 

ジェンダーを語る人って、あんまりフラットに語っている印象が無い。

これっておそらく、当事者でしか語ることができないみたいな固定観念があるから。で、この観念は文学的なところから浸透しているという。マジョリティがマイノリティのことを考えてはいけないのはその立場にはなれないからだが、こういう分断は社会階級という意味ではマルクス主義なのかも。

 

いや、別に理論的に語りたい訳でもなく、いまの世の中って社会の場が溝によって細分化されているから、ヲタクだって場によってはマジョリティだし、性的マイノリティも賛同者が集まってなおかつ弾圧されないのだから場によっては多数派になるという流動的な世界。

 

社会的にも多様性が是とされているのだから、犯罪にならない限りどれだけ生理的に気持ち悪くても大っぴらに排除はできない。というところから見れば、現代社会のいじめは大っぴらに見える差異ではないのかも(想像)。

 

多様性の本質は気持ち悪いというだけで攻撃しないというところであって、全ての人を同じく好きであるべきみたいな話ではない。

 

この話は政治的なのでここまで。

僕は個人的に、個人的なことは政治的であるみたいな観念はない。

 

やれやれ。

 

まだまだ知れることはある。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。