副菜祭り

 

 

調理に気合を入れ過ぎるとお腹がいっぱいになる現象。

人は物理的カロリーを摂取するのみにあらず。

 

 

人類が克服しようとしてきた項目って「ホモ・デウス」という最近の本によると3項目ある。これってヨハネの黙示録からのアレンジなのか。死は当たり前でそこに集約する方向で、人類を死に至らしめる三大要因。飢餓、戦争、疫病がピックアップされている。

 

この3大なんちゃらとベスト4とかというのは人に注目され易いという伝統があるのだろう。日本で言っても憲法に規定された3原則とか。国民主権基本的人権の尊重、平和主義とされている。僕も法律学を読む前にはふんふんとなっていたのだが、ある憲法学者さんの本で、外国に行ったときに外国の人から1言で要すれば憲法には何が既定されているのだと聞かれて答えられなかったというエピソードがあって、ちょっと衝撃。たしかに、これを1言に抽象化するのは難しい。

 

答えは「個人の保護」。13条に個人の尊重が規定されている。位置的に微妙だが、まずは天皇制の転換とか戦争放棄を先に持ってくる政治的な思惑があったのだろうな。3つの原則にばらけるとそれぞれ別物になって、かつ、なんとなく個人が抽象化されているように見受けらるのがそれを設定した人の思惑のような気もする。憲法って国家を規律する規範だから、それを国民が倣うべき規範とするのはきっと無理があったのだろうな。

 

法学畑はともかく。

 

人類が克服すべき項目の抽象化について考える。ヨハネの黙示録でもホモ・デウスでも同じ。たしかに人類という視点で見れば、それぞれの項目は脅威だし、それは客観的に克服していくべき現象。そうしないと人類自体が存続できないし。

 

ただ、これってその渦中の観念ではない。そういうことがある、もしくはそこから生き残った人がそれを考えている。あまり当事者ではない状況でないと考えることも客観的な視点で見ることもできない。と、考えていくと、一定数の人(日本人のほとんど)について脅威は克服されている。どんなに長生きしても退場は免れないという意識はほとんどの若者にもないだろうし。

 

結論ありきで考えているからそろそろしんどくなってきた。

 

キルケゴールさんは絶望が死に至る病だとした。人を緩慢に活動停止にするものは絶望ではなく、厳密には不安だろうなという思い付き。

 

不安は人の肉体を退場させることはない。ただ、不安は人の精神を役割(歯車)でしか動かないようにさせる。これを救済したかったのが原始宗教だし、現代社会だと不安は価値商売になる。

 

みたいな壮大な話ではなく、個人的に不安で身動き取れないのは嫌だなという境地に至っただけ。僕はこれでも現実では空気を読む人だから、人間関係ではセーブしてしまう。人間観が違う人に同じ標準で話すことなんてできないし、人間観を合わせて接さないといけない。

 

あと、満月さんが不安なのは嫌なのは、影響次元でもある。僕もその気分を鏡像としてトレースしてしまう。ネガティブな言葉って自他に波紋が起こる。物理的にえずきだすとかもある。あと、単純に満月さんの内側にある不安傾向が完全に解消されたら言葉に対してもっと自由になるではないかという説もある。

 

不安って精神界においてどうしても場所を取る。

 

人を退場させるほどでもないが人生劇場において身動きを取らせないようにする「不安」という概念と闘うためには、不安が保証されるように動くのではなく、存在そのものを運動させることだと思われる。

 

言葉で運動させている人も居るだろうし、言語化されない領域で運動している人も居るだろうし、宗教的な修行でやっている人も居るかもしれない。なんでも良いけど、ここには他人を傷つけるという現象はないような。

 

 

そうして、本日の運動の話。

 

早朝。目が潰れた感じで満月さんにおはよう。切羽詰まっているからかお弁当も作っている。素晴らしい。ちょっとスキンシップをして送り出す。

 

中途採用の適性テストのメールが返って来た。ログインができて恙なく完了。日本語として成り立っていない回答ばかりなのだが、ここであまりにも変な回答をするサイコパス的な人物を排除するという目的は分かる。約束とはなんぞやという質問に対して守らなくても良いという回答が用意されているし。あと、あまりに社会的にネガティブな人を取り分けるというのもありそう。もしくは矛盾とか。

 

図形問題は全く分からん。

某アニメの箱庭問題として、てきとーにやった。白紙ではなくもともと4分割されていて、分割が等分でもないのがおそらく心理学的な見地なのだろう。

 

面接にはこぎつけたので、近いうちに行ってくる。

 

禁煙については気になるところだが、お酒のように嗜むのであれば問題ないような。

傾向として煙草を吸う人が準反社会的であるというのはまぁまぁ分かるし。歩きながらとか、吸い殻をてきとーに捨てるとか。

 

ただ、この何が準反社会的かという話。法律には反していないけどもマナーとして良くないという定義にしているのだが、これって、悪口とか愚痴を蒔き散らかす人も当てはまるよな。物理的に人にPTSDをもたらすくらいの影響はないから、煙草ほど健康を害することはないけれど、健康に影響があるのはニコチンより不安だとする立場からすると、もはや吸えるところが隔離されている喫煙者よりも、受動的に悪影響だと思われる。

 

僕も喫煙者全般は特に擁護できない。余計なことをしているのは確かだし、そのゴミを息を吐くようにポイ捨てする層の方がなかなか。非喫煙者自衛官一家の十二支1周り下の満月さんの同僚の女の子からすると煙草臭はしないということだが、そんなに近づいていないし。

 

臭さが問題なのかというとまた微妙なところ。基本的には健康被害だという感じだが、個人的には煙草より生活習慣病に関わるカロリーの方が遥かに人類を退場させているような。

 

健康とか健全とは物理成分だけでは決まらないとか言い出すとお医者さんに怒られそう。

ただ、医学の領分はあくまで人の物理的側面であって、人を健康体にできても健全体することはできないと想う。まぁそういうお仕事ではない。人をケアする職業が専門化というか細分化したのは何故だろう。

 

別に確立されている医学体系に文句を言っている訳でもない。既得権益との繋がりで自分の信念で動けないという意味ではたぶん法律家と同じ。先に進む。

 

 

やれやれ。

 

本日の料理の話書けているっけ。副菜4品。これが運動。

運動に記述は要らないか。結果は食べる人に分かる。冬瓜を初めて使ったが、使い勝手が良い食材。

 

さらに遡って、寝起きのうたかたに、文学においてパーソナリティが類型化されだしたのはいつからだろうとまどろんでいた。だいたいの現代的な言葉は自分を類型化しているし、自分が類型化されないとしても他人を類型化している。

 

でも、類型化は抽象化に至る過程だからそれほど悪くない。

 

パーソナリティを言語化しないといけないという世界観は、自己分析をすることで自分が分かるという就活の作業に似ている。

 

ここにはもう少し先がありそうなので、また今度。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。