じったい(実体・実態)

 

 

 

なんとなく釈然としないけれど、どうやら採用されたらしい。採用と関係なさそうな部署から電話があって、書類を郵送するとのこと。現物が届くまではいまいちしっくり来ないが、こんな手の込んだ嘘もないか。

 

という感じで、宅建のテキストは買って早速お風呂読書に追加した。宅建業法は宅地の定義とかがやや、ややこしい。これは法律の読み方特有のややこしさだから特に問題はない。テキストもおそらく試験までに5回くらいは読めるから、それと過去問でなんとかなる。

 

あとは通勤のための自転車とスーツもう1着。あと腕時計も準備できていない。

 

 

ここまで書いた後にメールを確認したら採用担当の人からメールが来ていてやっと安泰。ともあれ、健康診断のミッションが緊急過ぎて面白い。前に受けた健康診断の結果はこっちに持って来ているからこれでなんとかなるか明日交渉してみるというところ。

 

 

あと気になるのが、車の運転の練習。基本的な動作(バッグ駐車は微妙、高速はほとんど経験なしだがほとんど1車線の山道だから、動作を誤ると谷に墜ちる)はむかーし愛媛やっていたから特に心配はないのだが、ここの地域の空気を読むみたいな感じがなかなか。大縄跳びに入るタイミング合わせのような右折が上手くいかないのはお客さんに対して不信感を抱かせるだろうし。個人的な満月さん一家の運転とかの体感だと結構対向車との距離が短かめでも曲がって大丈夫そうな感じはある。

 

愛媛の田舎はあんまり車が走っていないし、母親が結構待つタイプというだけかもしれない。田舎具合はここともともとの地元はとても近いのだが、交通量だけは段違い。流石車大国。

 

そういえば、日本文化の本で、車の運転マナーが日本は外国より良いという記述があった。外国の車は結構ぶつかってぼこぼこだって。ここで面白いのは、これが日本人の美点ではないと考察しているというところ。社会的摩擦を回避する動きをするのが上手いのであって、円滑に動くことを至上としている訳ではなく、車内の聞こえないところで悪態を付いているって。これは筆者の経験則なのかもしれないが、だいたい当てはまるような気がしないでもない。

 

僕も運転に余裕ができだしたらそういうことを言い出すのだろうか。街中でも道端に咲く花のほうが気になってくる気がする。人の動きってコントールできるものではないという意味は天候と近い。

 

天候に迷惑をかけられることは仕方ないと思いつつ、人に迷惑をかけられることは理不尽だと思うのは、社会学の本から持ってくると、権利関係の話だと思われる。どうするかが意志で決められるとか所有権(人権)を侵害可能なのは同じく意志を持った人しかいないという考え方が資本主義ないし個人主義。虫が刺してかゆくなったとしても賠償問題は発生しない。

 

 

さておき。

 

明日は満月さんの実家に行く。お母様に就職決まったことを報告すると、お父様が焼肉食べ放題を予約してくれるというおかしさ。僕はまだ配偶者というか親族でもないのに、結構歓迎されている。もちろんこれは僕の人格ではなく、娘が楽しそうに過ごしているパートナーだからというクッション付きなはず。

 

としても関係があんまり関係ない感じで接することができるのは楽しい。

手段の中で生きていないのは人生劇場上の最終形だろうし。

 

感謝は当然あるのだが、この感謝を報恩するのは反射ではなく満月さんと楽しく生きていくことだろうから、それほどプレッシャーはない。

 

我が家の母親にもそろそろ報告せねばという感じ。

あんまり嫌々するのはオトナの振る舞いではないし。悪そうなことを言いそうになったらい方向に誘導すれば良いのだが、あんまり人にこういうのしたくない。

 

 

やれやれ。

 

そういえば、満月さんに僕がこっちにやってきた後の友達は近所のコンビニの店長くらいしか居ないと言われた。たしかにその通り。白玉ぜんざいの上にホイップクリームが乗ったスイーツの発注を要望するくらいだし。

 

別に他に知り合いがいないことに対して、なんと想わない。僕の出自くらいから関わっているとか長く関わっていてなんでも話せる友達が居ないことは生きていく上では特に不要。誰かとLINEしていないと現実感をもって生きられないことはないし、根無し草みたいな空間で生きていることに不安は皆無。

 

もちろん関係にはこの視点では話せないことを別の視点では話せるという醍醐味がある。でもこれがあくまで裏表でしかないことであればその人と関わる必要もない。裏が無いといけないというのは人間の内部に矛盾があるという現実感とは全然違うような。

 

僕の世界には愚痴っぽい人が居なくなった。前職の年下上司が飲み会を開催しているのも職場では言えない本音を取集して職場を良くしたいというという感じだったし。

 

自分が社会に居られないかもしれない本音はそんなにネガティブでもないような。

ポジティブキャンペーンの為に読書会が開催されているという意味合いならちょっと分かる。僕は読書に対してネガティブなイメージを全く持っていないから参加できないのだが。誰かと本について語り合う機会は偶々の雑談が良い。

 

 

1984年」も読み終わってしまった。なかなか示唆的な小説。

ヒロインと再会して、お互い熱が冷めているのは互いに拷問されて、自分を〇すなら相手をって告白してしまったからみたいだが、もともとそれほど繋がっていないカップル。こういう構造になっているのはこの小説の世界が関係を希薄にすることを主眼にしているから。

 

ビックブラザーを愛しているみたいなフレーズで終わる。なんとも救いがない感じだが、個人的には愛の概念も善悪と同じように人間が創作したものよなという解釈になった。子供の為に犠牲になるというのは種の存続として若い個体の方が適者だという意味では動物界の共通の本能だが、人間は本能の他に理性を設定できるようになったから、理性的判断を感情的な愛着と辻褄を合わさないといけない。

 

これが金八先生とか、女王の教室で言うところの教育マザー。子供の為(愛)と解釈しながら本能的に自分にできなかったことを継承させようとする。放送倫理協会みたいなも似た怨嗟があるような。

 

自分よりもっと下はより善く生きて欲しいという潔癖感は愛というより本能の領域でありそうな。個人的な感覚だと、愛は手が届く距離から離れても存在が人生劇場において残り続けるというということであって、現実的に特に何かをするとか、してもらったからとかの感情ではない。

 

悪いとは言わないけども、僕が子育てするのであれば、僕の世界観では子供の人格を既定しないということになる。変な話、血が繋がって居ようが社会的に保護者であろうがあくまで他人だし、見えている現実はどうあっても違うから、安全領域だけなんとか教えつつあとは放っておくと思われる。

 

境界例の話と村上さんと河合さんの対談を読んでいると、現実はやっぱりあやふやなのだなとなるのだが、これに対して特に不安も無い。人格が個人主義で財産みたいな物であるという感覚はそれを選ばなくても良いし、選んでも良いという存在感だろうし。

 

僕のことも貴方のことも、自身の1つ視点より他者の視点の万華鏡で浮彫りなるという感じ。

 

明日は満月さんの実家でお泊りだから書けないかもしれないが、ノートパソコン持っていけば書けるかもしれない。

 

文章上の存在って文章体として動かなければ存在し得ないような。割とゆるゆる相互していそう。あんまりどうでも良いところだが、僕はあんまり緩めたくないなというだけ。

 

はい、ここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。