想像ないし妄想ないし推論
本日のリクエストは、ルーローハン。ウーロンハイと聞き間違えた。なんじゃそらという感じだが、満月さんがこの前行った美容院で読んだレシピ本に掲載されていた中華料理。豚バラ肉と茹で卵をオイスターソースと醤油で煮込んだものをご飯に載せた丼のようなもの。ポイントは八角。近くのスーパーにあって良かった。これだけで匂いが中国っぽい。
元レシピはパクチーとたくあんを加えるらしい。満月さんが苦手なパクチーは抜きで、買い忘れたたくあんは家に残っていた大根を白だしで浅漬けしたものを代用。ご飯は十分に吸水させた後鍋で炊いて蒸らしている。ルーローハンは煮つめている。副菜は冷奴と安かったアスパラに塩を振ってレンチンした後にごま油と鶏ガラ顆粒出汁で和えただけ。
まだ封を開けていないが、ぬか漬けをしてみたいとのことでこの前買ったぬかがある。説明の中にアスパラがあって、やってみたいとのこと。副菜では全部使って居ないからちょうどいい。
さて、ルーローハンは美味しくできあがるかしら。
感じで書いたらどうなるのだろう。ハンは飯で、回鍋肉(ホイコーロー)から、ローは肉。ルーは流だろうか。流肉飯。なんとなくぽいが、別に調べていないから定かではない。知りたい人は要検索。
八角余っているけど、何に使おうか。
マーボー豆腐に使えると説明はあったから何とでもなるか。
完成したから味見してみた。これ、かなり完成度高いのでは。
優しい豚丼という感じ。ネギを焦がしたりニンニクと生姜のみじん切りも炒めたりしているから香りが凄い。
さておき。
本日は昼から美容院に髪を切りに行ってきた。おでこが狭いから前髪は長めがお好みなのだが、仕事上顔がきちんと見えるようにしないといけないだろうから、短めでお願いした。見てくれ上はともかく、個人的な視界としても前髪が入って来ないのはクリアになって良き。
美容師のお兄さんとの雑談の流れでどういう仕事に決まったかという話をしていると、不動産系って資格がありますねと聞かれたもので、資格試験の話になった。この流れで美容師試験の話になる。美容師試験の合格率は6割くらいらしい。実技と筆記があって、筆記はマーク試験だが、科目が思ったより多い。法律関係はあるだろうと思っていたが、一般教養的な物理とか科学もあるとか。
どういった意図なのだろう。とか言って、司法試験の前の予備試験にも一般教養科目があるから、なんというか、その職業に必須でではないけども、品位というか格みたいなことなのかもしれない。本来であれば専門職の資格って、その職業の実務で使う知識のみの取得具合を測った方が良いような。
切ってくれるお兄さんは当然資格持ち。人体の構造も科目にあるというのは合理的だと思った。法律関係は、勝手に他人の髪を切ったら傷害罪であるところを、この専門職であるから個別に同意を得ないで良いという契約関係になるから、って、これは実技の問題か。
これから試験を受けるという見習いのお姉さんにシャンプーをしてもらいながら雑談したときに、法律関係ってどんな科目なんですかと聞いてみたのだが、あまり明確な説明がなかった。人に説明できるようになった知識は最上級で、マーク試験であれば人に説明できなくても問題文を見てピンときて勘と運で正解を選べば問題ないから、このお姉さんが受からないとは限らない。
想像するに、おそらく設備の条件とかが細かく決められているのではないかという気がする。ありうるところで言えばはさみを消毒するとかの衛生上のところとか、変な話だと店舗の広さとか。店舗が狭すぎると美容師の身動きが取れなくてお客様が危険な可能性があるから、こういう許可条件もありそう。
もちろん調べていない。たぶん専門学校が専有しているノウハウだから、調べてもそんなに分からないからただの推論というか妄想でしかない。試験も専門学校に行っていないと受けられないらしいし。
お姉さんは受かってバリバリ働けるようになれば良いな。
気になったのは、お兄さんも言っていたのだが、もう勉強したくないという言。
たぶん、机に座って暗記したものを吐き出して優劣が付くということを示している。僕もここは同意する。ただ、新しいことを学ぶという概念で捉えれば、新しいことを採り入れられなくなった人生劇場はかなり退屈な気がする。だから気晴らしが必要になる訳で。
個人的に美容師の国家試験が気になったのは、たまたま雑談に出て来ただけだからだが、別に自分に必要なことではなくても我が事として気になる。話題を掘り下げるためでもないし、お姉さんに歓心を抱かせるためでもない。
なんだろうな、必要を気にした知識の習得も勉強だけどここは世界を細分化することになる。世界を拡げるためには、単に気になるとかの興味関心が原動力になるから、勉強という言葉では表現できないような気がする。
勉強で自分は変わらない。
まぁ、変わらない自分が存在していることは、その自分が好きということだから別に悪いことでもない。
僕はこの勉強的な意味での好きな自分は居ないような気がする。
細分化された自分の世界に居心地の良さがなく、拡張的な自分で過ごしている。だからと言って、細分化方面の自分が拙かったとも思っていないから、自分によって世界が煩わされることが無くなった。
昔はそりゃあ大変だった。
自分を大事にするという概念がこじれて、自分にとって価値が無さそうな自分は早々に退場した方が良いのではとなったこともある。生きているだけで迷惑をかけているのではないかって。外から見ればそんなに悲観的にも見えなかっただろうが、内側ではこの想念にわれていた。
この暗がりから脱出したのは、何かとの出逢いとかではない。
たぶん、これまで生きてきた集大成が手に取れるカタチになっただけ。迷惑かどうかなんて知ったことではない。ちゃんと自分で楽しめば良い。
お母様は鋭い人で、僕の人格について、つかみどころがないと仰っている。
個人的にも、ここうん十年過ごしていて、どこかに自分を決めるということが無いらしいという認識。窮屈だからアウトローになるというでもない。社会における最低限のルールなりモラルは普通に大事。
ただ、人が羨ましいとか、恨めしいとかはなさげ。
自分の物理なり精神を守るための自衛は必要だが、ここはきっと無意識がやってくれる。意識的に登って来る時点で、保守的な人格が蔓延っている。
ここで問題になるのが、自分を誰かに説明するときにどういう風に語るか。
人格的な一貫性が自明になっている舞台では話せることがほとんどない。
というのもきっと僕の思い込みでしかないのだろうなぁ。
けども、昨日書いたセミの粗相とか、現実で話す話題ではないような。
そんなことが気になるということは、こういう人格なのだという類推が働く。
僕はあんまりここを一貫としていないから、どんな話が展開されても問題ない。ラングとパロールなのか、シニフィアンとシニフィエはともかく、表現されたものと表現者はそれほど繋がっていない気がする。
どう書かれているかは大問題。
悪いものを外に置いている表現は美味しくない。
某真理教のインタビュー本で村上さんと河合さんが対話している巻末に、河合さんがどんな組織(枠)でも悪が内包されていないと瓦解するみたいなこと言っていた。たしかに、惡を外に置くと、善の暴走が起こってなんでもありになるような。
なんの話なのか分からなくなってきたが、そろそろ寝るのでここまで。
おやすみなさい。