情報量

 

 

 

 

本日はなかなか研修項目が進んだ。運の要素もあったが僕はきっと運が良い(思い込み)から、この点はなんとでもなりそう。2つも新しいことがあって楽しかった。そろそろ内容が仕事に踏み込んで来たためあまり書けなくなってきたのだが、他にも書けることは多々ある。

 

あとは運転。1人で10分程の場所に行ってきた。なかなかスリリング。ナビアプリのラグと仲良くなっていなくて、曲がるべき道で曲がれないことが何回か。通り過ぎても道は続いているから今の段階では気にしない。一通だけ気を付けて遠回りする。とにかく事故らず違反せずに慣れることが肝要。

 

店舗の駐車場。1回目は先輩男子に3点と評されたが2回目に1人でやってみるとYouTubeで見た動画がお勉強になって、少し上手くなっていた。1発で上手くは入らなかったが、動画の人も1発でする必要はないと言っている。左側のドアミラーの見え具合で隣の社用車にぶつかりそうだと思ったから、1回やり直したら、ほぼほぼ良い感じになった。あと30㎝下がって車止めのぎりぎりまでいった方が良かったが、枠には平行に入れていた。ぶつからなかったからOK。やり直しを推奨してくれるのは流石の教習所YouTube

 

キープレフトとか細かい車体感覚は培っていかなきゃいけないが、それより前に習得すべきは、アクセルワークとハンドリングと思われる。別に加速したくないのに無駄に加速している。ハンドリングは可動域の慣れだと思うが、とりあえず曲がるときはかなり減速するようにしようという感じ。

 

仕事もそうだが、自分が拙いのは自覚しているから無理しない範囲で上達していけばよいというマイペースで生きている。こうしておけば完成されている人からの指摘が良く浸透するだろうしというある意味打算的な感じだが、1発でできる程器用ではないから仕方ない。

 

 

回り回って結構素直になっている。

 

とはいえ、拙いだけでは新卒程待ってもらえない。一応強みだなというのは、記憶領域では1回でだいたい覚えているというところ。このお客さんこの前(3週間前くらい)に来ていた人だなとか。人の顔とか印象を残しておくのは結構得意かもしれない。

 

ほんとうはメモを取らなくても大丈夫そうだが、一応メモを取っている体にしている。むしろメモ取ることに傾注すると覚えられないまである。でも、メモ姿勢を取らないと、こいつ話聞いてないなと思われそうでもある。本当は聞き終わったあとに残しておくべきことを選別してメモに書いておくというのが正しいような気がする。

 

 

なんだか動揺気味なのが店長は仕事で、満月さんは運転で気になっている模様。

たしかに初めてのことは動揺している節がある。体も反射的に反応している。ただ、これって実は初めてのことに対する反応として成功体験を得て来たから、あえてそういう風に身体が成功体験としているだけかもしれないという説が浮上してきている。こういう構えというか姿勢って危機感満載だから、そんなに変なことはしないというかできない。

 

ただ、こうなっていることに対する内部の精神は特に動揺していない可能性がある。一応動揺っぽい身体に流されている風になっているが、熱さ(危機感)が喉元を過ぎれば案外楽しんでいるという節。メンタル強めなのかもしれない。

 

 

証左になるのかは分からないけども、経年してくると新しいことを収集したり習得したりすることが億劫になってくるはず。僕は未だに特にそういうことはないのだが、これって結局のところ、遅々とした進歩に精神の速度が合わせられないという理由があるのでは想像する。できることは経年なりに増えているのに、新しいことを想像したり自分が拙かったりするところが見るに耐えないという感じなのでは。

 

僕は基本的に遅々で進むことが好き。散歩とかまさにそう。なんなら読書も情報量の速度は遅い。ゆっくり進む速度感だから車の運転の速度感が馴染んでいない説もあるけども、ともかく。

 

この速度感の良いところは、他人に対しても待てるというか、他人の遅さにイライラしないで済むというところ。進もうとしない人についてはしょうがないが、進もうとしている限り今できないことを気にしない。できないからやらないという安全圏の世界も当然アリだが、僕はたぶんそういう世界の住民ではない感じ。

 

もちろん内心ハイスピードでむちゃくちゃ思考が巡る帯もあるが、別に誰かに付いてきて欲しいはない。これを生活圏で出すと考え過ぎと評される。逆に現実では行動が遅くなるという不可思議な現象になる。ちなみに、ここだとさらに翻って何も考えてないと評されることもあるという。早すぎることは遅すぎることとは同じに見えることがあるという。

 

 

 

やれやれ。

 

そういえば、「ある男」もなんとなく面白く読めてきた。配偶者が転々した時の子供の苗字に対する心情がリアル。血筋としての父親なのか愛着としてなのか、もしくは母親のもともともの姓なのか。生まれたときには母親の姓って母方の祖父祖母の苗字だから、子供としては何の愛着も無い。母親としては結婚するまで生きてきた名前だから、戻ったところでもとに戻ったというくらいの感覚だろうけども、そこに子供との感覚のギャップがある。

 

名前って子供にとっては苗字も含めてアイデンティティなことが多いから、姓が変わるだけでも相当なストレスになりうる。

 

僕はアイデンティティとは別に自分の外への表示上の名前がシンプルで好きなもんで良いのだが、満月さんと結婚したとして、苗字を変えたくないから自分の方に寄せてくれと言われたらそれでも良いかなとは思う。あくまで外に表示する名前というだけだし、ここを人格

と連動させている節はない。

 

なんて言い出すと長男なのにとかと親世代に言われそうだが、制度上の家はとっくに崩壊していて、思想として残っているだけだと思っている。もちろん新しいことが良い訳でもないから、思想としての家制度で生きている人も尊重はしている。問題は、あくまで思想であることを意識しているかどうか。

 

「リリィシュシュのすべて」も進んでいる。

「白雪姫殺人事件」でもあったような気がするが、ライブ前の事故というか事件に何か終着があるのだろうか。時系列が前後左右になったり、事実が欠けていたりするのは表現物の醍醐味。あとは読み手が補充したら良いよというのは、現実生活ではあんまりない。

 

補充するのは当人だから、そこに読み手それぞれがあるという自由。

 

 

どうだろう。

本日はここらへんでおしまいなのだが、楽しそうに書けているかしら。

 

はい、では。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。