なんとでも

 

 

 

また1日ずれているが、昨日自転車で夕道を帰っていると、何件かの民家の玄関先で何かを焼いている。実家の風習と同じなのか定かではないがとても懐かしい光景。

 

実家では落ちている枝とか葉っぱを焼いて、ご先祖様の霊をお墓から呼び込む。やってきたら、ちりーん、ちりーんという鐘の音と、提灯で先導して、お盆用に作ってある祭壇に収まってもらうという手順。お盆の間、ご先祖様は家にいてお盆が終わるときに逆の手順でお墓に戻ってもらうということをやっていた。なんとなく神秘な感じの儀式。幼少期にはその次の日辺りに従弟達がやってくるし、地域的なお盆祭りが開催されるしというところで若干うきうきだった。姉と妹の異性のきょうだいしか居ないから、同性の従弟がやってくるのはなかなか楽しかった。

 

厳かな儀式も子供にとっては非現実への入り口になってしまう。

 

 

さておき。

 

明日は休みのゆるゆるしている。カレーをご所望だったからルーを買ってきたが、なんとなくそのまま作るのは嫌だから、トマトピューレを少し入れてさっぱりさせる。さっぱりさせるだけだとマイルドさが薄らぐかもしれないから、隠し味にお好みソースを少しばかり。本当はウスターソースか中濃ソースがあれば良かったのだがある物で代用した。

 

副菜はおつとめ品60円のアスパラで甘酸っぱいマリネにした。ポッカレモンが干からびていたから満月さんが使って表面が悪くなっていたナマ檸檬の表面を切り取って絞った。甘めにし過ぎたもんで、中辛のルーではなく辛口だった方が箸休めに適していた気がする。要改善項目。

 

これに加えて洗濯もしたのだが、帰ってきた瞬間だと精神が摩耗し過ぎていて、そんなにタスクこなせる気がしないという気分だった。まぁやったということはできたということで、おそらく良い感じの疲れ具合だったから。

 

というのも、本日のお仕事時間のほとんどは外に出て運転していたから。普段使っていない神経でやたらと磨り減る。本来は既知の道で慣れていくスキルを未知の道でやっていくから余計に大変。怖いのは当たり前で、その中で何が大事なのかということが学習できるという意味では、良い方向での疲れ方。個人的なコツとしては踵に力を入れた方がアクセルブレーキが安定する可能性があるというところ。

 

収集した情報が腑に落とし込めて、ある程度の正解が蓄積されていくという摩耗はきちんと返って来るから良き。疲れ方で良くないのは、何が何か分からないし、ある時に正しいことが、別の時には正しくないみたいなちぐはぐになると、いったい何の為に疲れているかが分からなくて、ただ無駄に精神が消費されるだけになる。怒る人が居る職場もそうだし、怒るお客さんが常連だとそういうことになりそう。

 

うまく駐車できるときもあるし、できないこともあったが、色んな局面を経験しているときっと考える前に体が反応することになる。

 

(まだどこにもぶつけていない模様)

 

 

変な話、人間の疲労って、機械みたいに時間に比例して経年劣化していくものではない。同じ活動量でも体感の疲労が全然違うことは当たり前にあるし、人の体って機械みたいに操縦できるものでもないし。あんまり精神で身体を完全にコントロールできることもないし、身体からの方向でも然り。

 

個人的な今後とすれば、精神がやや嫌がっていることでもさっさと動いたら精神は体に流されるというのがある。ただ、無理矢理やると仲違いしてしまうから塩梅が一番大事。僕はたまたま強靭(狂人?)にできているらしいから、特に気にせずとも塩梅は良い感じ。

 

人に同じようにしたら良いよなんて口が裂けても言えない。

 

 

 

ともあれ。

 

昨夜さんが芥川賞の書評を書いていてざっと読んだのだが、あんまり原文を読む気にはならない感じ。いや、昨夜さんの文章は面白いのだが、引用されている原文の語彙がなんとも。たぶん面白く読んだり、罪悪感で読んだりするような人は居るのだろうが、あくまで共感的な文章なのだろうなと。単なる印象だが、小説版最果さんみたいな感じ。

 

芥川賞ってそういう傾向だったっけ、と思ったら、「蹴りたい背中」とか、「蛇にピアス」とかはまさにそうか。賞を取った小説が自分にとって面白い文章だとしていない。たまたま読んだ本が賞を取っていたということはある。

 

この辺をパロディにしているのが安部公房さんっぽい。色んな見方の専門家が出てくるのだが、自分の範疇外になると途端に素人になって、誰かの言い分を信じて動いてしまう。当時の文壇の風刺でもあるかのかと想像してしまうが、文学史には疎いからあんまり当時を知らない。

 

 

あぁ、「リリィシュシュのすべて」。なかなかきな臭くなってきた。言葉でしか繋がっていないない関係に現実性が無いという世界観は分かるのだが、現実の肉体がある世界でも言葉が重視されるなら、あんまり変わらないよなぁと。

 

ここをきっちり感覚ではなく言葉で定義できる人がいるなら教えてほしいところ。

たぶんできないから、言葉にできないところを現実としているのではという節。

 

否定でも批判でもなくて、結局そういうもんだというだけ。

 

定義できない方が、いずれ定義できるかもという楽しみがある。

 

 

頑張って文字数稼いだが、本日はここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。