観測と解釈

 

 

 

21:23から。

 

満月さん印の晩御飯で満腹。大葉満載の豆腐ハンバーグと、鶏むね肉の冷しゃぶ。玉ねぎとトマトでタレがかかっている。きゅうりと大根と人参をピーラーで麺状にした梅味のマリネも素晴らしい。

 

2度寝しようかと思ったらアラームの2分前。別にそれでも問題ないくらいすっきりした目覚め。良く寝ていたらしい。本日お休みの満月さんも僕が出る時間までごそごそしていても起きなかった。眠りが浅いタイプなのに珍しい。

 

 

お仕事も結構スッキリ終わった。

 

店長と2人きり。昼過ぎまで外回り。自分が運転に慣れてくると、他人の運転の意図が読めてくる感じがある。大丈夫だろう運転と大丈夫では無いかもしれない運転の違いとか。地元民しか通っていないような細道だとだろう運転の人が多くてスピードが速くて空気が読めていない感じになってしまう。そんなスピードで動いているとたまたま大丈夫だったという結果論でしかなくてヒヤヒヤする。空気より法定速度を読むべきだとは思うのだが、後ろから大きめのトラックがプレッシャーをかけてくると、空気感を無視できない自分も居る。

 

だいたいの道はナビがあればなんとかなるかなという段階までは来た。次はこの辺の道を覚えて、ナビに頼るところはポイントだけというところに行く。自動車は不完全な人間が作成した物だから、スムーズな運転はあっても、完璧に安全な運転はなかろうし。

 

本日の仕事がすっきりスムーズになったのは、店長の助言に素直に従ってみたから。

予定を出勤した直後の朝に書いておけば、それをやろうとするのではない? という強制ではない、あくまでアドバイスめいた感じ。決めてしまえばそれを軸に無意識が調整するし、仕事上で無限の散策をする時間は、勤務時間という限定がある限りできるはずがない。

 

新項目もやってみたのだが、決めたら特になんのことはなかった。

時間の優先順位の付け方の話でしかない。拙さは申し訳ございませんという感じだが、拙いことにかまけて動かなかったら、いつまでも可動域が拡がらないし。

 

店長も僕へのアドバイスというよりは、もしかしたら自戒めいたものがあるのかも。さらに上から色々指示されてくる中で、自分の予定を貫徹させないといけないだろうし、おそらく時間がいくらあっても足りないという感覚なのかも。だから予定という軸が大事という話。

 

もちろん人相手のお仕事だから、予定がずれ込むのは当然だとしても、もともとの既定路線がないと、ブレブレになっちゃうよねということを言いたいのだと解釈している。僕が自分の都合より相手に合わせがちになってしまうということもバレているのか?

 

という感じで、動いてみたらさらにちょっと自由になったというのが日記的日記。

自分の中の何を動かすのかは人それぞれだし、動かない方に優先順位が置かれている人に動けって言ったところで仕方ないから、そういう場合の上の人はその部下を逐一観測して指示をすることになるのだろうな。

 

早々に店長の負担を減らしながら仕事できるくらいにはなりたいと思っている。

事務作業の部分では既にややという感じだが、実務がまだまだ。

 

ずっとまだまだだと思っていると想う。人を相手にする以上、完璧なお仕事はない。

 

 

お仕事の話はここら辺でおしまいにして。

 

 

 

やれやれ。

 

本日、文学系の本を読んでいるときに、ふと、なんでフロイトさんの社会科学とか、なんならニュートンさんの自然科学も引用されているのだろうという思索。

 

これって、迷子的に散歩してみると面白くて。

 

要は、客観的な観測を採り入れようとしたということ。

 

科学と名がついている領域はすべからく観測できるかどうかを問題としている。もちろん法学だって、内心の意思がどう外から観測できるかという客観がベースになっているし。憲法でいう個人の尊重とか基本的人権とかも、それが観測できる領域で保障されているかどうかが問題になっている。

 

フロイトの心理分析が客観的なのかどうかはともかく、他者の目から観測できる領域まで科学したからこそ今でも残っていると言えるのでは。観測できるということは、時代を越えられるということでもあるだろうし。

 

芸術も観測の可能を問題としている領域。誰から見ても観測対象として一意であるから、その作品だけで成り立てる。絵画とか写真とか、正味あんまり芸術性を味わえるような暖間では無いのだが、ともあれ物体として存在しているというのはたしか。

 

ここで、文学が科学よりになることの意味ってなんだったのだろうなという話。

シュールレアリスムは文学がやってきて凝り固まりを解消するような方向に動いたのかもしれない。作法度外視して、ただ見えるものを表現するみたいな(こんな付け焼刃だと満月さんに怒られそう)。

 

ただ、個人的に想うのは、文学という言葉を対象とした芸術って、客観的観測にはどうあっても馴染まないような。言葉群である文章はたしかに文字通りに観測すれば客観的だけれども、その作品の成果って、個々人の読み取りフィルターを通した当人の頭の中で実体化するものなような。もちろんある程度共有化できるし、それを束ねれば客観化と言えなくもないけれど、他の科学がやっているような意味とは一致しないような。

 

完璧な文学がありえないのは、人が不完全だからという次第。

まぁ、突き詰めていけばどんな学だって人間には完璧にするのは無理だからこそ、皆で掘っている。

 

本来は学とするような領域ではない気がするが、学という権威があった方が良いという何某かの思惑があったのかも。

 

思惑はともかくとして、僕の文章は読んでいる人が勝手に読むように読めば良いです。

観測も解釈もフリー。元気にならなかったとしても責任は取りません。元気になったとしても勝手に元気なったということで良い。

 

 

はい、これから夜の活動(ゲームとか)があるのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。