いたたまれなさ
21:41から。
気を抜くとすぐ2分経つ。2分集中したら何文字書けるのだっけ。
200文字くらい?(言い過ぎ)。
本日はお休み。髪を切りに行ってきた。美容院に行くときはだいたい雨で雨男認定されていたが、今回は大丈夫だった。美容師さんと専門職の免許制度の話で盛り上がる。美容師免許は一回取れば一生モノらしい。こういう話をするお客さんはなかなか居なさそう。
結構がっつりツーブロックにしてもらって、ガチガチに前髪を立ててセットしてしてもらったら、満月さんにサッカー部の人みたいと言われる。高校のサッカー部はチャラチャラしている感じで好きではなかったのだが、そんな容姿になってしまったのか。見習いなのに店長っぽいらしいし。
容姿と言えば、腹筋が割れているときと割れていないときがある模様なので、腹筋に力を入れながら過ごしていこうと思う。声が通らないから厳密には力を入れるのは横隔膜辺り。たしかに最近忘れていた。前職では声が仕事道具だったから結構意識していたのだが、現職は生身も含めてだから、若干声をおろそかにしている。もっとちゃんとしよう。
そして緩々書いていて、ここからノープラン。
とりあえず、たまたま見つけて買った海ぶどうが美味い。
水で洗って氷水で締めて、ニンニクわさび醤油で食べている。ぷちぷち食感と塩味が絶妙。
そういえば、散髪に行く前にちょっとはお勉強もした。
正直なところ、宅建の勉強は行政書士と比べればそれほど面白くはない。ただ、仕事に使うから面白みを見つけながらやるというだけ。量さえこなせればきっとなんとかなる。ここから一ヵ月で、休日が何日あって、どれくらい時間をかけられるかという話になってくるが、あんまり先行きのことは考えられないから、今、どれだけできるかというだけ。とりあえず過去問10年分くらいをこなせればきっといけるだろうなと言う感じ。あとは、それをこなせる環境を自分の劇場の中で作れるかどうか。
これって別にその為の時間を確保するという話ではない。時間を確保したところで、それをこなせるかどうかは自明ではないし。だから、厳密には時間の確保ではなくて環境の確保ということ。読む量で言えば一般的な読書スピードよりだいぶ速いし、考えられる量もきっと多いから、あとはその幕間を確保するだけ。確実なところとしてはお風呂読書があるし、意識さえしてれば、仕事時間であってもそれを考えることはできる。仕事中に今日の仕事が終わったら何しようかという意識をお勉強寄りに持ってくれば良い。
ともあれ。
凄く素朴な人間という存在についての考察。
僕はここ自体については、特に哲学したことがあんまりない気がする。
自分が人間社会に存在する意味とか、こんな相対的に価値がない人物は早々に退場しなくてはならないのではないかという希死念慮はあったし、今でも気を抜けば退場したいみたいな気分にはなる。
ただ、これって社会における価値指標で自分を捉えればという前提であって、僕自体は何の価値も付与されなくても存在することに特に罪悪感がない。退場したがりの人がODやら自分の身体に傷を付けるみたいな存在認証の挙動があるのは、別にしたければすれば良いという感じ。身近な人がやっていたとしても、ほんとに致命的にならなければ放置する、いや、していたか。
生生しい話をしても、良いのかな。
個人的な感覚として、手首とか腕とか傷を付ける行為はなんというか、自分が生きていて良いのかと言う抗いだから、汚いと思ったことはない。僕はそういう傷は無いけれど、暗がりに生きているという意味ではまぁまぁ似ている。
自分の体に傷を付けることがイケナイことだとしたら、暴飲暴食とか睡眠不足とか分かり易く見える部分で付いていない傷もまぁまぁイケナイと思うのだが、社会的に見えないことには社会はけしからんとさえ言えない。ODが内部的にまかり通っているのはきっとそういうこと。
で、もう少し穿っていくと、外から見て何も傷付いて見えない明るみに居る人も結局は見えないところで傷があるのだろうなという知見になる。生きていく上ではどれだけちゃらんぽらんに過ごしたとしても、どこかに痛みがあるだろうし。一般的には成功者とされている芸能人が退場するとか。
日向も影も紙一重だから、別物ではない。
別に文学をやったことはないけれど、表現物もある意味傷めいたものがある気がする。自分の何処かを切開して血が流れるくらい身を切って、存在証明の為に書く、みたいな。それくらいの域で書いているのはいまや昔の文豪であって、表現は運動でしかないというのが現代なのかも。これはこれで表現界隈がブラックでなくなって良いと思うが、ほんとに人に響くのは、身を切り売りしているような表現だろうなと感じる自分がおって、たまたま繋がっている表現以外は読み流すしかないよなって。
変な話、自慰行為に文学的語彙が乗っている文章が美味しい。
自慰が結局自分の為だけだったらそれは同じ領域にしか伝わらない表現だろうなって。
結局のところ、読み物として面白いのは読み手を傷つけるものであるような。
この、「傷」の定義がなかなか微妙なところだけど。
例えばお母様は、僕の文章が長すぎてもうちょっと短くして欲しいと言う。頭がこんがらがるのもある意味「傷」だと思う。煩う。
昔のドラマの再放送のテロップで、こういう表現があるからそれにトラウマを持っている人は気を付けて下さいみたいなのがあった。いや、それに気を付けたら何の自由もない。
でも、多様性を気にし出したらそういうことになる。
なるほど、だからnote界隈は基本的に自分の領域しか表現しないのか。僕のことを意識している人が居るとすれば、別に登場させていただいても問題ないのだが。
(これは自意識過剰なだけという説が有力)
そこまでポリコレ気にして、表現できるのかという話。
小説界隈は文章を読む人の界隈だからもうちょっと規制が緩いのかもしれない。
自分の事だけでずっと誰かに読まれるような文章ってなかなか難しいのか。
はて、僕の文章は誰かさんにずっと読まれている気もする。
この誰かさんは特に特定の個人という訳でもないのだが、単に勝手にここに居るんだろうなと感じているだけ。
まぁ、そのうちの人の中で僕と物理的に邂逅する気があるのかというと、ほとんど無いと思われる。別に僕もあんまり人とは接したくない人だし、興味が沸いた人とだけは遇ってみたら面白いかなというだけ。
何の話か分からないし、今日は時間をかけ過ぎたのでここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。