捻出

 

 

19:23から。

 

満月さんが20時頃に帰って来るからそれまでに書き終わる予定。山芋のわさび浅漬けと、豆苗とワカメの胡麻マヨ醤油サラダは作って、メインの豚肉とひらたけの中華炒めは帰って来てから。

 

 

朝ごはんはちょっと雑炊(鮭)、昼ご飯には近所のラーメン屋さんに行って一緒に食べた。久々のラーメンの舌。あっさり正油(美味い)だが、どんなにあっさりでもお腹に残るのがラーメン。残るとはいえせいぜい数時間。それでも、食べた感があるから好まれているのだろうか。ラーメン好きをディスっている訳でもない。四国の風土が地元だからうどん派なだけ。ラーメンは袋麺で夜食とか休日のご馳走だった。チャルメラだったかな。乾麺はそんなにお腹に残らない。

 

生だと胃が消化に困って時間がかかるのかもしれない。

 

 

 

さておき。

 

昼過ぎに満月さんを送り出し、ちょっとゴロゴロした。なんなら30分ほど寝た。そのあとは、部屋のお片付けとお勉強。来週満月さんの長年のお友達がやって来るみたいだし、リビングの足の踏み場が減って来ていたから整理した。足の踏み場を増やすと埃が溜まっている部分が露出するもんで、掃除機もかける。

 

やろうとすればできるけども、それほど優先順位が高くないだけというのは、端からみれば部屋を片付けできない人と認定されるかもしれない。やろうと思ってもできないとは違う。基本的にやろうとしていないだけ。

 

あくまで個人的な感覚論だが、そもそもやろうと思っているという心の状態が観測される時点でまぁまぁ遅い。ほんとにやることであればやろうとしようと想う前にやっている。

 

というのが、お勉強に移行する幕の間の話。やろうやろうと思っている時間は何もやっていない訳で、人生劇場の幕から引っ込んでいるよなって。まぁ、もぞもぞと舞台に上がって2時間ほどはやった。知識としてではなくあくまで自分事としてするのが大事。丸のみするのではなく咀嚼する為にはどうしても時間を要する。

 

もちろん内心も自分の存在に含まれるという劇場観はアリ。それで考えると幕の内側に居る時間というか部分はとても少なくなるし、ト書きとか地の文みたいなところがほとんどを占めていそう。だから世界は窮屈だとなるのか。たしかにここを重視するバイオリズムのときはとても世界が狭く見える。自分の内側は基本的に身動きが取れないことが前提条件だし。それが人格と言うもの。

 

満月さん帰ってきた。美味しそうに豆苗サラダを食べている。

 

 

やろうという幕外タイムの話の続き。

 

この文章タイム、やろうとかやりたいとかやらなくてはという次元でやっていない。僕が考えているのはこの時間を確保する為にどう環境を整えるかというだけであって、何を書こうとか、書かないといけないことがあるという幕外はない。時間と書いても良いという安心感の環境さえ整えれば勝手に毎日書いている。これで1000記事以上続いている(noteに掲載しているのは300くらい?)ってなかなかやばいが、それが僕の人格の本質だったというだけの話。

 

存在が嫌味になるからあんまり動かないようにしようという環境学習はある意味正しかったような感じ。楽しさは原動力というより、栄養素みたいなものだし、賛同とか協賛は変人も居るものだというくらい。という意味では、それほど芸術家でもないのかもしれない。ここで言う芸術家の定義は、表現と存在が連動しているということ。この下りだとSNSで書いている人もれっきとした芸術家になる。

 

僕は割とこの文章で書いている世界観がそうではないよという意見もウェルカムなので、表現に対するプライドはあんまり無いのかもしれない。他から持ち寄られる確証を必要としないという意味では、まぁまぁ独尊的。

 

存在が嫌味にならない為には、基準が変人であることをもっと外界に表現しないといけないのかということに気付く。基準が違うとなれば、同じ次元に持ってこられないだろうし。

 

結局のところ、他人の目という存在しているか微妙な次元を結構気にして生きているのだが、ここよりもっと具体的な相手の目の方が大事だろうなという感じ。具体的な相手が一般的な視界しか持ち合わせて居なかったらとなると微妙なところだが、視点は個々人固有なもののような気がする。

 

何かの歴史学で読んだのか、哲学かは忘れたが、個人が社会の構成員としての集合から切り分けられたときにまなざしも集団から個人の物となったという話があったような。誰もが同じものを見ているという一種の共通幻想みたいな世界で生きているつもりでも、目だけはその人のもの。

 

もちろん、目が見えるものを全部ちゃんと捉えているかというと嘘。見える前に無意識によって選別されている。最近の僕で言えば、賃貸アパートがやたらと目に入るみたいな。

 

どんな理性的な人であっても、客観的に物事をあるがままに捉えることはできない。それは国家機関とて同じこと。なんて言い出すと、一種の賢がっている層に反感を買いそうだが、あんまり気にしない。僕だって無理。知っていることだけ知っているのと同じように、見えるものだけが見えているのが人。

 

素朴なありのままの自分は在り得ないとしてしまえば、随分と過ごしやすくなるような。

 

これは啓発ではなく、自分の話。

より楽しく人生劇場を過ごすためには、自分がどう動いて行くかを気にしていく必要がある模様。見えているものが全部ではないし、動いているのも全部ではない。

 

だったら、割と物理を超越しているのが人の存在ということになる。

 

僕の文章を日常的に観測している人はだいぶやべぇ(良い意味で)という認定なのだが、良くもまぁ読んでおられる。たまたまやってきてスキを押していく人とは年季が違う。我ながら、こんな文章読んでいて大丈夫かということは気になりつつ、自由は人それぞれということで気にしない。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。