奇特

 

 

夜ご飯は唐揚げ定食を食べてきた。久々で美味しい。そういえば昨日の台湾ラーメンと餃子は大好評。ラーメンは市販の醤油スープを買ったのではないかって。丸鶏ガラスープ、あごだし顆粒、にんにくみじん切り、だし醤油、塩コショウくらい。だしの種類を増やすと深みが出る模様。個人的にダシダという牛ベースのだしが気になる。見つけたら使ってみたい。

 

料理が上達していると言われた。これって作る相手がいるからだろうな。張り合いが出る(名前が付いた料理の方が共有しやすい)というのもあるし、食べる舌が2つになることで次元(変数)が増えて面白い。まぁ駄目出ししてくる人でないことは最低条件かも。「相棒」でそんなシーンがあった。ここがこうなった方が美味しいという提案ではなくお前の料理なんて食えるかーというのは紋切り型として結構あったと思う。いまだったら自分で作ろうかという話になるはず。契約とか親族であるというだけで当たり前に出てくる物ではない。いまや料理を作らない生活をする自由も当然あるが、だからこそ僕はこの時代でご飯を作るのが楽しい。たぶんお金持ちになっても変わらない。圧力鍋とか道具の追加はあるだろうけども、自分でできる領域はあくまで自分でする。

 

 

さておき。

 

履歴書のデータ探しにUSBを差し込む。職務経歴書はあったが履歴書は保存されていなかった。職務経歴書は前職で作るからもともと1からだが、履歴書の来歴は西暦と年号の対応が面倒。全部西暦に統一した方が人の処理コストはかなり減るだろうが、日本の独自性も減る。こういうの書いていると、自分の社会的来歴が1枚の紙に収まるペラペラなものと錯覚してくる。できることがほとんどないよなって。面接の為のとっかかりと考えればそんなに変でもないのか。何が書かれているかより対面した時の印象のが遥かに大事だろうし、例えば1万字以内で来歴を文章化してくださいみたいなポートフォリオは読む方も大変。

 

職務経歴書も調べてみるといまは質問に答えるだけでひな形を作成してくれるシステムがあるらしい。司法試験で言うところの論証パターンみたいなもので、読む方も大変だと思われる。論証パターンを開発した予備校の塾長は本当に考えるところ以外を省エネするためのひな型として構想したとのことだが、皆が皆同じようなことを書いてくるということで実際の採点が大変だったとか。

 

行動経済学では人はリスク回避傾向が強いから、無難な手段があると思ったらそっちを選ぶだろうし、それによって成り立っているビジネスもあるだろうし。

 

ビジネスと言えば、アプリの広告で良く出てくる、めちゃくちゃ下手な操作で失敗するやつ。貴方はできますか、みたいな。あれも何かの心理学ないし行動経済学の知見を使っている気がする。簡単にできそうということはリスクがないということか。同じアプリばかり出てくるということは、その業界でかなり力を持っているか、広告費を投入しているか。

 

僕はひねくれ者だし飽きっぽいからどうせ続かない。ほんとうに面白そうだったらダウンロードするかもしれないが、ほんとうに面白かったらオープニング以外で過剰な宣伝はしなくても済むから自分で探す必要がある。

 

こういうメカニズム思考は、法学畑で発見したこと。法って抽象化を突き詰めていけば目的(思想)の現実化であって、ほとんどの構造はこういうコンセプトが前提になっている。自分だってそうだがここはそれぞれややこしい。社会制度もほとんどはそう。習わしという馴れもそこが共通することで仲間意識という安全を互いに提供するという現実化があっただろうし。

 

ところで、「イチケイのカラス」が終わったから「ビギナー」を見ている。こちらも名作。リアルタイムも見ていた気がするが何も残っていない。この面白さは法律知識が付いたからではなく、法を介すると途端に他人事になるという現象。サスペンスだと普通に殺人が横行しているが、これがエンターテイメントになるのは虚構だからだが、法を介すると現実との連続がある。準虚構であり準現実。医療をテーマとした世界観も似たようなところがありそう。

 

いまの社会って、自分事と他人事が完全に分断している風俗なのかな。芸能人(有名人)の悪いことにやたらとバッシングするとか、正義の暴走みたいに捉えていたのだが、道徳は媒介物としてあんまり機能していないような。分断しているから大義は何でも良くてそれを発することで何かがしのがれている。生き辛さとか。

 

分断が無い動物動画が蔓延っているのも分かる。僕が自然を好きなのは癒されるとかではない。癒しが必要なほど辛く生きていない。ありのままが良いだけ。下心がないというか。ただ、今のところペットOKの部屋に住めたとしても飼う気はない。そういう存在が無いと生きて行けないということは無いからという理由が思い浮かんだが、たぶん違う。

 

でも、人に下心があるという観念も単にインストールされてきただけで、ほんとうは違うのかもしれない。これって防衛本能の延長で、仲間とは外の人にはまず警戒で接するとか。僕は仲間内の評価がとても嫌な感じがしていた。人の評価が対面の現実的な関わりではなく風評とか伝聞になるって怖いこと。相互に監視されている感じ。そんながんじがらめな世界では僕は自由にはなれない。これが緩和された場が前職場だった。僕のほんとがやべー奴だとしても問題なく仕事だけで評価してくれていたし。

 

仲間とは別だが、満月さんの友人が2人、2日後にやってくるらしい。僕の小躍りを観測したいという奇特な人達。常識人であることが求められていないから、ウェルカム素面小躍りということも在りうる。これによって満月さんの評価が変わることはないし。

 

いや、基本コミュ障だからどうなるかは不明。

 

人のことを交友関係で観測するのは客観的には正しい方法だが、交友はあくまで環境であるという可能性もある。縁を切るという選択肢がそもそもない人はなおさら。

 

僕が交友関係を断捨離したのは、現象としては無根拠。自己解釈すると、環境だけで繋がっている知人を一掃したくなったという説。自分事ではない環境でも繋がれるかどうか。この前唐突に一瞬繋がった5年くらいの知人は今後もあるかもしれない。現実の環境の関係だと、あんまり小躍りできないからつまらない。

 

関係の定義もネット社会が侵食してきて揺れ動いているような。

僕は現実的頻繁な邂逅を関係が深いとはしていない。深くなり得るとは言える。お互い屹立していけば良き。このいまの自分を理解しそうなのが、この前の知人。背中が痛いって言っていたから何か患っている可能性もある。同情はしたくないからそれがどうあれ仕方ない。

 

 

どううでも良い話を最後に持ってくるのもどうかになるのだが、関係の領域で「作る」という言葉を用いるのが好きではない。恋人を作るって、自分事の世界だから嫌。こんな自分でも恋人を作れたみたいな話が蔓延っているが、恋人って生産するものなのか、雰囲気で顕われるものであって、就活みたいな戦略でするものではないような。僕が運に恵まれているからモテたのだという説もあるけれど、いちいち自分事にできていたからそこに惹かれた人が現れたという説。相手が僕の事を自分事にできていたのかは知らない。

 

あと、子供を作るという語用も苦手。もちろん生物学的にも社会的も正しい観念だとは思うが、あんまり人間味がない。授かりとまでは言わないが、コントールできるというのはどうも違うような。そういう固定観念なく育てられそうな人といま過ごしている。

 

 

 

最後の最後。

 

文学理論とマルクス主義がどう繋がるのかと読んでいると、文に社会性が癒着しているという派閥があるとか。とても分かる。ここでいう社会はマクロな全体ではなく、個人的なとこと。共通する社会観があるから誰かと通じるという世界観。詩人だって誰かと共鳴できないと詩人足り得ない。

 

僕の文章だって、小躍りして滅裂な言葉しか書いて居なければ誰にも通じない。

でも、ここが社会観なのかというと微妙なところ。社会って基本人格が属性で抽象化する領域であってここはそういう抽象化して読めないような。

 

抽象化の本質は経験外の世界を自分事にできることであって、自分がどうとかはとは別にありそうなという話はまた今度。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。