起こり

 

 

21:29から。

 

 

仕事が終わると雨。これくらいなら大丈夫かとスーパーまで自転車で行って買い出しまでは問題無かったのだが、その後に激しさを増した雨がたやすく僕を濡れそぼるおっさんにした。帰って来てスーツをサーキュレーターで乾かす手配をして、お風呂読書前にシャワーを浴びた。お風呂に浸かることとシャワーを浴びることを分割。時短になる訳ではないが、こういう発想はお風呂読書をする前にはなかった。

 

 

さておき。

 

お仕事。成果にはならなかったのだが、繋がっているしとても勉強になった。個人的には1対1の方が得意かなという感じだったが、2人で住む為のお部屋を探すというのは、お二方の会話を聞いていると、なんというか、生活のイメージを具体化(現実化)するところに焦点があるのだろうなと思った。諸々の費用面も含めだが、その前にイメージが現実に落とし込めるかどうか。

 

個人的にもなんとなく本日で決まってもあと腐れが残るだろうなという感じだったから、決まらなくて良かったとも言える。本日の転移を踏まえて、逆に僕のイメージが転移できるようにできればなと。

 

ちゃんとしているというか、ある程度具体的なイメージが付いている人は諸々調べている前情報がある訳だから、その情報と新情報を踏まえて、自分がこれで良いという納得が無ければならない。無理矢理納得に持って行くのが営業なのだろうけども、僕はそこまでスキルがないし、なんならスキルが付いたとしてもそうならないような。スキルは自分の為のものではなく、仕事の為に使うはず。

 

昨日も2人のお客様で、こちらの方は成果になった。

特に何かをした訳ではないのだが、イメージを固めるサポートはできていたのかなという印象。個人的にも決まって良かったなと感じている。

 

エリアの人が昨日の応対を見ていて、何も営業しとらんやんと評価されるかと思っていたが、本日聞いたところによると、押しもせず引きもせず、営業っぽくはないけれど何か高評価だったらしい。このままで良いということであれば、それは有難いこと。

 

営業脳にはきっとなれないけども、このお仕事は相性が良いという感じがある。

人生劇場を裾から垣間見えるところも良いし、裏方としてより良き生活舞台をご用意できれば尚良いというところ。

 

あと、勉強になるところも素晴らしい。

ここでいう勉強は、知識の蓄積という意味合いではなく、こちら側の人生劇場にも影響してくるというか、物事の見え方のものさしが増えるという感じ。

 

さらに言えば、素朴に人生を楽しんでいる自分で居て良いという感じもある。

人の新しい環境の選別に携わるって単純に楽しいなと。楽しいと楽は違うと金八先生が語っていて、まさにその通りと笑ってしまった。

 

 

そうして、最近忙しいねと先輩方と雑談しているとき、硯さんのことが話題に出ると、「頭の良さ」がセットになっていると言われた。これって実際の僕がどうのというより行政書士の資格のせいだと思う。弁護士事務所の採用では特に大した資格ではないから、あくまで相対的な評価。

 

別に僕は相対的に頭が良いと評価されたくて生きている訳でもない。ただ、個人的にはずっと頭が良くなりたかった感はある。イメージとしてお勉強で成績が良いでもなく、賢者みたいな何でも知っているでもないから、どうなんだと自己を読んでいたが、要は自分が持っている何某を度外視して、世界に対して勉強できるようになりたかったんだなとなった。

 

これで言えば僕は思春期から20代にかけて思っていた、頭が良い自分にはなれている。ここで言う頭の良さは、自分にある物から頭ごなしに世界を否定せずに、食べて咀嚼して腑に落としてしまうという感じ。腑に落ちたらそれは自分の世界になるという、世界が生きている限り拡張されていく。

 

無知の知との親和性もあるのだが、今やあんまりここを基準にするのも変だなと想う。無知を知る為には何か知っていることが前提になるし、自分が無知であるという意識は卑下に向かいがちになるから、新しい食べ物をくれて世界よいただきますみたいな感謝が良いような。味覚と世界観はかなり近いところにあるような。自己の内部に取り入れるという主観的な感覚が意識化されやすい器官だし。

 

 

賢くなりたりたいけどもなりたくもないジレンマは、賢いとされている人って権威的であったり高圧的だったりする感じがあったから。まぁそうやって知識なり知恵は上から下に流れていくという不文のルールがあって、この役割を当てられるようなキャラはそう振る舞わないといけないという無意識があるのかもしれないけど。

 

僕はあんまり上下の世界観がないもんで、高圧的に上から下へ流すという感覚がなく、下(例えば年下とか)とされている人からで勉強できるし、上とされている人もしたから勉強できた方が、なんというか世界は発展していくようなという感じだから、高圧的に情報を流すみたいな物理作用に則った伝達の仕方はしなくて済む。

 

 

道徳の系譜学」で、道徳的な良さというか善は、ヒエラルキー上位が設定したものだという起源への考察があって、たしかにとなる。ニーチェさんが住んでいる世界観の話とも言えるが、日本でもそういう感じはあるような。善が上、惡が下という観念は、地位とか身分とかの世界観を前提としている。

 

別にこの世界観を否定しようとした訳でもなく、単にそういうものなのではという一石を投じただけという読み味。ただ、当時読んだ人には色々衝撃だったのだろうなと想像する。現代日本でも、小説で煙草のポイ捨てが出てきたらけしからん警察が出てくるみたいだし、当時は相当炎上したのだろうな。

 

これを読んでいて、ほんまかーそうなんかーと味わうだけだと、楽して読んでいる。

読んだ後にどう解釈するのかというのが主体的な楽しさ。

 

ふと思ったのが、現在日本における善悪のこと。

メインカルチャーとかサブカルチャーの括りって、結局そこに分布している人の価値観の比率のグラデーションではなかろうかって。

 

満月さん帰ってきて雑談タイムなのでここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。