繋がりと隔たり

 

 

 

22:10から。

 

 

悔しいなぁ。

 

店長が採点してくれたのだが、最初は調子が良くて、途中で足踏みして、最終的に至らなかった。点数は全然だったのだが、個人的には紙一重で勘が冴えていなかったと思っている。2択まで絞れたところで外れたのが多かったからだろうな、と。まぁ周りは結果でがっかりしているし、こんなことを言っても言い訳めいているから言わなかった。

 

店長は2カ月くらいでここまで持っていったのは素晴らしいと褒めてくれたが、内心はがっかりされているだろうな。期待を裏切ってしまって申し訳ねぇ。

 

腹が立つから、来年は勘に頼らずに直感が反応するくらいまで理解して満点目指すかという気分。今日からまたテキストを読書時間で読んでいる。ほんとはテキストみたいな覚えるだけで良いくらいまでかみ砕かれた流動食ではなく、全法令を紙媒体で手に入れたいところ。コンビニで印刷すると費用が膨大になるから、プリンターを買うか、仕事場で印刷できるか相談するか。

 

民法でもずっと理解できていなかった抵当権の順位の放棄が出て来た辺り、引きが悪いというより、逃げるなよと言われていると解釈した。スルーしてきてごめんやで。

 

ちゃんと立ち止まって拾っていこう。

 

 

さておきというか、少し仕事の話。

 

試験会場に行く前にばたばたとお仕事が入り、成果っぽくなっていたのだが、そのお客様余り触れず、キャンセルになった。なんとなくお互いばたばたしていたから、結果がふわふわしているのも分かりみ。こういうのは、ほんとにギリギリまで決まらない気がする。

 

でも、こういうお客様をフォローしていくのもお仕事。

 

 

ちょっと事務作業してゆったりと試験会場に向かうつもりだったが、ばたばたとぎりぎりで出発することになり、心が試験モードに切り替わらない。こういうこともありうることは学習した。

 

まぁ、市電がゆっくり動くし、試験会場である某高校の空気感によってゆっくりと切り替わる。高校の机あるある肘を付くとカタカタ鳴る脚が歪んだ感じだった。高校の机ってこんなに高かったかなぁとも思う。ちなみに、学祭の後片付けが残っている。

 

試験時間中は、申し訳ないところではあるが、正直かなり楽しんでいた。何も外から調べることができない中身だけで考えるって楽しい。調べれば分かるようなことで人間を測るのは正味時代遅れな感じもするが、それがある程度能力の証拠になるのも分かる。

 

渦中はきちんとやって、終了30分に1周解けたから2回見直ししたのだが、自己採点の時に、「正しい」を選ぶのではなく、「誤り」を選んでいるという凡ミスを発見したり、直前に見た情報が上手く残っていなかったりと、ばたばたした流れを持ち込んでいる様子がいくらかあった。

 

最初の2問で1という答えが続いて、これには確証があったし実際合っていたのだが、いきなり1を続けるとか問題作成者はいやらしい作り方するな、と、ほくそ笑む余裕はあったのに。

 

 

ここで考える、HSP傾向のこと。

 

僕は結構外的環境に影響を受けやすい質で、外と内の膜が割と曖昧な感じ。別にこの曖昧さを苦に思ったことはない。だって、ここは鍛えようがないし、世界からの採り入れに流用すれば、人生劇場が退屈にできないというメリットもあるし。

 

実際に会ったこともないし関わったこともない読者のことを普通に人と認識して情が沸くのはわりとデメリットかもしれないが、これはこれで良いのか。

 

ただ、今後の対策というか生き方としては、もっと内部の固有の時空みたいなものをきちんと守ってあげる必要があるのかなって。「みたいなもの」と表現しているのは、時間も空間も自己とその他の時なり位置なりとの、相対的な関係でしかないから、1人の個人の中にはそんなものは無いと言う解釈。

 

もちろん相対的な意味での自分の時間とか空間は、人間関係の中で生きる以上、絶対量は増やせないし、増やしたくもない。そうではなくて、確保できている量の中の時空めいたものを無駄に使わないという意味。無限にあるものではないから、無為に過ごさない。目的からの逆算で有効活用するような意識高い系でもない。意識高い系は苦手。高いということは低いということがあって、それができない人を見下さないといけなくなる。正味、人を見下しているような暇(いとま)は無い。

 

そうではなくて、自分で生きていることをきちんと隙間なく意識すること。

ほんとにしたいことがあるのであれば、いつかするではなくできることからしないと意識に隙間ができてしまう。もちろん、休むときは休めば良いが、休むことが他責になると歪んでくる。

 

ここがしっかり確保できているという自覚と行動があれば、人なり環境なりに影響されて流されたところで、自失しているという感覚はなくなるだろうなと。

 

こういう感覚を得る為にお風呂読書なりこの文章タイムを作っているとすれば、金銭に換算されなくても、個人的には凄く価値がある。きちんと迷子している。

 

個人的には、僕の文章界の理想は、誰かには読まれているけども誰が読んでいるか分からないという場所だった。だから、「漂流文」という個人サイトでスキもコメントも書くところがない場所を創ったのだが、自分がきちんと在るのであれば、どこでも良いような気もしてきた。

 

実際現実では割とどこでも良い感じで場所を取っているし、逆にギャップがある。

 

自己分析が世界に流用できるみたいなおこがましい感覚はないけれど、個人の分析はその人の世界観に適用されていると思う。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。