認識

 

 

 

21:47から。

 

 

5時くらいに目が覚める。2度寝に深入りできずうとうとと夢を見た。

 

自分の顔と対面してお話をしている。少し右目が腫れぼったいから、整体に行っていない世界線の自分なのだろうと解釈する。整体行ったことにより右の二重がはっきりしたというのは満月さんの言。別にお互い羨ましい感じはなく、世界線が変ったとてそんなもんだろうなという感じで淡々としていた。こちら側としてもあちらの世界線に後悔はない。あちらというより、あらゆる世界線(可能性)が収束したここで十分。これからでも拡張は無限大というか、あらゆる世界線に移動できる可能性があるし。

 

自分の顔って長いこと眺めていると誰か分からなくなる。精神実験で鏡越しの自分に「お前は誰だ」と言い続けると精神が崩壊するというのをどこかで見たが、真実はさておき、なんとなく分かる。人って自分のことを顔で認識していないだろうし。自己認識が顔にあるのだとすれば、そこを装う必要がない。装えない自己がほんとうの自己認識なのでは。

 

自己認識が哲学の対象になっている時点で、自明ではないんだよな。

何によって自分が自分であると認証されるのかというのは、固有名詞では済まない話。ここをスルーして、社会認識上の自分で生きられるととても気楽だとは思う。実際自己認識を気にしなくても人生劇場を過ごせるくらい精神的なインフラも整っているだろうし。

 

デカルトさんのコギトエルゴスム(我思う故に我在り)も結構面白いのだが、思考している間には自己が存在しているというのも、何かピンポイントの把握でしかないような。もちろん、デカルトさんは思考の持続時間が長すぎて、なるほど自己とはこれかとなったのかもしれないけれど。

 

これって、何かを考えている間に意識が健在化している=自我みたいなことになっている。ただ、何かを考えていない時でも、それを意識することは可能だろうなという感じ。在り様を意識することで、自我か途切れないというか。

 

対象が特にないときに意識できるのが自我。

むしろ意識自体が自己と言って良いのではと暫定的には定義しているが、更新される可能性はある。

 

 

さておき。

 

お仕事。

 

なかなか成果上暇な1日だった。成果が無くても下準備はしないといけなくて、車でブーブーと近場を回る。くるくる旋回しないといけないタイミングでは片手で操作した方がハンドルはスムーズになる模様。ただ、回し過ぎてしまうこともあって若干不安定。慣れればんとかなるか。片手操作の一番良い点は、どれだけ自分が回したのかが途切れてない分把握し易くて、元の位置に戻しやすいところ。

 

運転の経年も赤ん坊みたいなものだから、たくさん経験するしかない。

スムーズになったとしても二車線をくねくね抜いていくような変なせっかち運転はしないけれど。あの運転する人ってどういう意識で生きているのだろう。他人の車は障害物みたいな認識なのだろうか。

 

 

記憶力が凄いとも言われた。

個人的には、記憶力は覚えておく力ではなく、どれだけ頭の中に空きスペースがあるかといかというものであって、能力の話ではないと思う。

 

満月さんも記憶力がしっかりしているから、生活していてほとんど齟齬が無い。

お互い抜けるところはあるが、残しておくものは残っているし、特に確認しなくても恙ない。こういう塩梅も、きっと他の人ではできないと思う。

 

自分の世界だけで生きている人は、覚えるより覚えられる方が大事になるだろうし。

 

 

あとは、教え方が分かりやすかったとか、優しいとか。

この話は省略しても良いような気がする。どちらも一般的な話ではなく、具体的なところだから、僕が誰にでも分かり易く説明できる訳でもないし、誰にでも優しい訳でもない。

 

これもスペースの話なのかも。

 

 

やれやれ。

 

記憶力というか、自分に記録されているものからどれだけ取り出せるかというのも、覚えておかないといけないことでもなく、好きだから残っている訳でもなく、もっと無色で良いのだろうな。

 

好きだからとか趣味でとかのことが残っているのは、そのときに意識が持続しているということでしかないのでは。

 

好きだから残っているのではなく、残っているから好きなのだという逆説。

人間の意識って時間を自在に操作するから、逆流を主流としがち。

 

ここで、村上作品の冒頭を羅列するつもりだったが、面倒なので辞める。

 

資格試験にもこの記憶の概念が使えるのかは試行してみる価値はありそう。

 

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。