余り物

 

 

 

21:57から。

 

 

朝出発する前に5分余ったから洗い物を少し減らした。お風呂の水を抜くことも考えたがすぐ洗えないと汚れがこびりついて洗うのに時間がかかるからやめた。できることは数分でもなるべく減らしておくという意識。

 

土日祝はなんだかんだ21時前帰宅になるから満月さんが帰って来るまでに日記まで書き終えるというのは難しい。まぁ、こういう時に鍛えておけば、時間がある時にはよりたくさん使えるように調整できるようになるのかもしれない。知らんけど。

 

帰って来てから一服し、洗濯をしながらお風呂をためて、買ってきてあったちゃんぽんの具材を準備。豚バラ、シーフードミックス、キャベツ、玉ねぎを塩コショウで炒めてちょっと鶏ガラ顆粒出汁で味付け。ついでにしめじとミニトマトでレンチンナムルも作った。あとはベビーリーフサラダ。

 

 

さておき。

 

満月さんが朝の準備時間の合間におにぎりを作ってくれた。頭が痛いとのことのなのに有難い限り。ご苦労様でご馳走様でした。

 

 

お仕事はなかなか神経が摩耗した。この仕事特有ではあるのだろうけども、人と接するのではなく、運転で見知らぬ道をぐるぐるすること。どれだけ注意しても事故が起こりうるのもあるし、地元道に新参者としてお邪魔するのも大変(1度クラクション鳴らされる案件が起こる)。新参者であることは慣れようがないが、運転に使う神経ってどれくらいまで鍛えられるのだろうな。

 

重点的に見るべきところは分かってきたとして、信頼の原則には例外があるということを常に想像して反射できるようにしておかないといけない。あぁ、信頼の原則というのは刑法上の過失のところに出てくる概念で、主に交通事故に適用される。具体例だと、赤信号であれば進行しないという交通ルールを相手が守っていると信頼して運転すれば良いよという感じ。赤信号はともかく、自転車とか車線変更とかの道交法の理解が皆曖昧(もちろん僕も)な領域だと何を信頼すれば良いのかもあやふやになるから、結局ルールより現実を気にしないといけないような。

 

まぁ、筋トレみたいなものだと思って、日々神経を意識しながら鍛えていくしかないか。

いや、筋トレを継続したことはないけれど、筋線維に負荷をかけて太くしていくのと似ているのかなと。

 

 

本というか活字の話。

 

若者の読書離れはここ20年くらいずっと言われている。本日も新書で書かれていたことが紹介されていた。若者が求めているのはどんでん返しとかなんとか。

 

個人的には単純に大人が読まなくなったから子供も読まなくなっただけだと解釈している。テレビとかネットがある昨今、情報の摂取として読書を用いるのは速度が遅すぎるのだろうなって。市場に出てくる本は書かれている最中からすれば過去になっているし、この視点からすれば、新書しか置いていない書店であっても遺跡めいている。

 

仕事場のスーパー事務方の人も、アプリの運用マニュアル要りますかと聞くと「文章を受け付けないから、分からないことがあったら硯さんに聞くわ」と返すくらい、文字から情報を摂取するのはあんまり一般的ではないのかもしれないなと。

 

別に過度に一般化している訳でもないけども、日常的に本を読んでいる人がほとんど周りに居ない。時間が無いというより、優先順位の上位に来るほど現実的な日常には置けないのかなと。もちろん本屋さんに行くといっぱい人は居るのだが、どうなのだろう。

 

そういえば、昨日の朝活のあと、満月さんと現代作家の小説はあんまり読めないなという雑談をした。たぶん、視覚情報というか、肌感的な面白さを求めている人が読むものであって、行間を読むようなものではないというか、行間を読まなくても良いように整えられている。良い悪いではないけれど、そういう喉越し爽快な本を読み続けたところで、文章に慣れることができるのかというと微妙なところ。読み物というより見る物になっているような。

 

 

違いが自分の中でも整然としていない。見たままにもバイアスがかかっているし、読み方ないし解釈の方向性も客観的ではありえないし。

 

見える物としての言葉は、もともとは世界の拡張だったけれど、これだけ言葉が当たり前になった世界だと、むしろ消去法くらいなものなのかもしれない。

 

 

もやもやしながら、寝るのも一興か。

 

昨日の民法の話の続きを書こうと思っていたけれど、特に需要もないし、全部書かなくても発端の言葉があればナカに認識ができるからそれで構わない。

 

はい、おしまい。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。