絞り出し

 

 

 

22:15から。

 

 

仕事に忙殺されて出がらしというか泥のようになって帰宅。

 

店舗全体の作業量がキャパオーバーしていて、初めてのことでも1人でやる必要があり、なんとかこなしていたら、致命的なミスをしそうになった。お客様が気付いてくれて事なきを得る。ありがたや。

 

発話量もなかなか多く、僕ってここまで人と対話できるのかという感じ。

声も出がらし。

 

このままとろけて何もしたくない気分。

 

ただ、満月さんからお母様からいただいたうなぎを解凍して、一部はう巻きで食べたいというリクエストもあったし、変な話、仕事で疲れたから何もしないということをすると、人生劇場の主な舞台が仕事になってしまうのが個人的には嫌だなと。加えて、人間の物質的ではない恒常性の性質からすると、疲れたから何もしなくて良いという行動を続けると、それが恒常的、要はデフォルトになってしまって人生劇場を楽しめなくなるなと。

 

だもんで(なのでを冒頭に持ってくるのは誤用だが、これはどうなのだろう?)、う巻きを作り、かけるための大根おろしを作り、うな丼用のご飯を鍋で炊いて、大根とサニーレタスのサラダを作成。

 

ほうれん草があるからお浸しも作れるし、と朝満月さんに言われたのだが、レンコンのゆかり和えが残っているから省略した。明日だったら胡麻和え作れるかな。

 

あぁ、ちなみに別に料理を作らなかったら満月さんが怒るからという原動力はない。仕事が忙しくて出がらしになったから作らなかったという理由で怒る人ではない。これがゲームしていたとか遊んでいたとかの理由であればきっと怒られる。試験勉強はグレーゾーンかも。直前期ならきっと協力してくれる。

 

という、刑法上でいうところの結果無価値論ではなくて、割と現代的な行為無価値論に近い考え方の人。刑法論を話しだすと文字数が足りなくなるから省略。

 

モチベーションとしては、義務ではなく権利の方が遥かに強い。

僕が作った料理を美味しそうに食べてくれるだろうなと。実際、帰ってきてう巻きを食べて絶賛だった。うなぎ要素は当然だが、だし巻要素も美味いとのこと。

 

 

 

さておき。

 

そうやって、料理を作り、本を読んで、文章を書くところまで来ると、仕事で出がらしになったと思っていても、再稼働できる領域はある模様。人間、自分を使い切れることなんてほんとどなく、マージンを取っていることがほとんどだし、マージンを使ったところで体調が悪くなるなんてことはない。体調が悪くなるのは、マージンの使われ方が悪い。義務感だと悪くなる傾向にありそうな体感なのだが、実際どうなのかは個人の感覚に拠ると思われる。

 

どうでも良いが、本日のお客様の中に、PDFにして送った資料にタブレットに手で書き込みをしている方が居て、こういう文明の利器は使い勝手良いよなぁと思った。僕も仕事用に導入しようかしら。紙媒体だとかさむけども、メモって紙に書き込んでいるのではなく、脳に書き込まれている。効果としては紙の方が物質的だから強いけども、タブレットに手書きできるのであれば、効果も充分ありそうだし。

 

残して見返すためのノートではなく、脳に書き込むための手書き。見返すという機能で言えば、圧倒的に自分の文字でない明朝体とかゴシック体のフォントの方が良い。手書き文字の巧拙とかもあるのだろうけども、手書きは記録として圧倒的に時間と労力がかかってしまう。

 

司法試験の論文試験もワードで書けるようになれば、読み易いように書くみたいな試験とは無関係なところを気にしなくても良くなるから、対策も変わって来るような。漢字の変換とか、データの改ざん可能性とかを考えると今は手書きしかできない気もするが、正直なところ、まぁまぁ時代遅れな気がしないでもない。

 

フードロスの考え方の類推として、人間がしなくても良いようなものを人間がするロスは減らしていく方が良いような。

 

これが突き詰められていくと、人間だからできているとアイデンティティめいた領域は減っていくけれど、減ったところで人間で在ることは変わらないし、むしろこのまま進んでいって最終的に残る部分が人間の本質だろうから、問題ないはず。

 

まぁ、ロスになる余剰が利益として循環していくのがもともと資本主義のコンセプトのような気がするし、この社会においてはロスは前提であって、どう減らしていくかの方向性しかない。もちろん、資本主義の全貌は個人1人が把握できるような世界ではないから、僕の視点も単なる1つでしかない。

 

 

余剰としての利益は、割と人の本質を突いているから、考え方として長生きできている。

 

今日考えていたのは、お金って量が価値に直結していて、量によって規定される世界。この世界においては量にできるものが全てだし、質も量に換算される。例えば人の命でも数量化されているし。交通事故とか。

 

ただ、この世界を前提とするのは当たり前だとしても、ほんとに見るところは量に換算されない領域だし、実際人ってそういうものを見たり感じたりしながら生きていないか。

 

言葉だってほとんどは量の世界だけど、量の尺度では把握できなさそうなところが大事な感じでもある。量で書いている人の文章が面白いと感じない人は質の世界寄りの住民かも。

 

道端で見つけるコスモスと、たまたま見つけた良い文章は僕にとっては同じくらいの質。

 

 

迷子になってきたので帰宅して寝ることにする。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。