痛み

 

 

21:45から。

 

満月さんがSyrup16gは僕に合うのではないかというものだから、なんとなく聞いている。

今は「人間」。歌詞があまり聞き取れないのは、youtubeと並行して聞いているというより、歌詞が文字情報として頭に入ってないからだと思われる。

 

 

晩御飯のメインは、青椒肉絲。下ごしらえで食材は切ってもらっていたから調理と調味だけ。美味しいのだが、ちょっと濃い気がする。あっさりレタストマトサラダと鶏ハムを組み合わせるとちょうど良いからこちらも残しておく。

 

洗い物を捌いていくのが苦手っぽいから、洗い物は残さないでおく。

 

 

最近食事量がやたらと増えてきた。びっくりした満月さんがグーグル先生に何か疾患でないかと聞くくらい。とはいえ、もともとの量からすれば、まともなカロリー摂取になったくらい。

 

 

さておき。

 

本日は予告通り、朝活をした。

いつもの起床時間から50分早い7時30分にアラームをかけたのだが、結局眠くて20分だけ早い8時前に身体を起こす。缶ごみを捨てに外に出て頭をすっきりさせた後、過去問を1つだけ解いた。

 

上出来。別に急ぎで詰め込む段階ではないし、その時間を日常に創ることが大事だから。残業時間が多い土日祝の祝日の次の日にできたというのも大きい。

 

ここで眠気について。

朝起きて眠いって、生物学的に睡眠時間が足りないというより、次にすることが嫌で拒否反応を起こしているという面が強いのではという説。前者の不足だとむしろ朝一は元気であって、その後だんだんとツケが回ってきて日中眠くなるのでは。しなくてはならないことが外から決まっていればその時間に合わせて頭も動き出すし、任意で決められる、朝することにおいて嫌寄りだと眠くなるような。

 

だとすると、改めるべきは、しないといけないと思い込むのではなく、朝活を楽しめるように工夫すること。

 

外向きの用語として一応「勉強」という言葉を使っているが、個人的には過去問を解こうが、本を読もうが、勉強という概念の中ではしていない。

 

この言葉がなんで嫌なのか。

まず、字面。「勉めて強いる」という張り詰めた感じで居る必要はなかろうって。

 

次に、僕はあんまり勉強しろと言われながら育った訳ではないが、勉強していない人ほど勉強しろって言うところ。ここは偏見だが、ここを突き詰めていくと、勉強と言われる現象をしている人は、自分が勉強していることをまなざしていなくて、対象を収集したり研究したりに没頭している訳で、それが終わった後に、外から見て勉強をした、勉強をするみたいな表現法になる。

 

要は他人事的な言葉だなという感じ。

 

内部で言葉に対して何を考えていたところで、外向きには勉強で良いし、別に僕の語用を他人に強要しようと思わない。割と語用を自分(達)のもので均そうという衝動はありがちと見受けられるけど、どういった衝動でそんなことが起っているのかがよく分からない。

 

 

勉強と言えば、たまたま、この文章が漂流しているのを見つけていただいた司法試験の受験を目指している人の記事をちょこっと読ませていただいた。

 

僕もずっと受けていて、このエピソードを誰かに話すと夢破れた人みたいにちょっと同情めいた目で見られるもんで、あんまり言わない。個人的にはこの時間は僕の中でプライスレスな糧であって、今は理論を頭でこねくり回すより、何かの知識を現実の実践(人間)と結び付けていくのが楽しいと思っているから、全く後悔はない。なんならそのうち再開する可能性もある。

 

ただ、再開するとしても、いまどき2000文字とか3000文字を手書きで時間内に論文を書くような、書きにくいし読みにくい試験形式が変わってからかもなという気はする。手書きの字が下手だし筆圧も強いから、別の訓練が必要になってくる。せめてワープロで書かせてくれないだろうか。実務に就いた後の訴状とか全部wordだろうに。

 

もちろん、だからと言って合格できるかどうかは別の話。

 

 

そうして、この人の「勉強が怖い」という記事を読んでふと思ったこと。

 

僕もむかーしごりごりやっている頃、そんな気分になったことがあったなぁと。

勉強自体へのフラッシュバックではないのだが、何かをごりごり記憶しようとしていると、対象と無関係の記憶が芋づる式に発掘されてくる。これは思い出したくないからシャットアウトしてみたいに任意に操作できるものではないから、収集しようとすることと並行的に発掘が起こってくる。

 

周りを眺めるとこういう痛みとかはなく、単に暗記への苦痛みたいな感じであって、自分は変なのかなと思っていた大学院時代。その頃のアルコールは村上さんの「ドライブマイカー」で言うところの引く為の飲み方だった。

 

で、その数年後、派遣で倉庫作業のバイトをしている時に知り合った、得体の知れない人。どうやら大企業で働いていて稼いで辞めて、公認会計士の試験を受けているとかなんとか。別に疑っている訳でもないし、そうだろうとは思っている。

 

この人に、タイマンで飲んでいる時に記憶にまつわる芋ずる式の痛みを話したところ、そんなのは当たり前と言われた。そういうものだということであって昇華の話ではないのだが、

なるほどそんなものなのかと感じたというエピソード。

 

個人的な話だからぼやかすが、この人、思い出したくない記憶があるのに痛みと共に勉強していて、なかなかのマゾなのだろうな。痛みがあるから忘れないというところもあるのも。思い出したくないけど、忘れたくもない、みたいな。

 

村上春樹さんの作品にも「忘れられたくない」みたいなテーマがずっとあるような。

僕は人から忘れられても、あんまり気にしないような気がする。むしろ覚えられないのがデフォルトだから、覚えている人が居れば、おっ、この人の中にはまだ自分が存在しているのかとなるくらい。

 

 

今の僕は、あんまり芋ずる式の痛みはなく、単に対象と向き合って楽しく対話している感じになった。これは別に痛みが無くなった訳ではなく、そういう記憶は常駐しているものとしていて、実際常在しているから、ふと気になるような存在ではなく、目を向けるか向けないかというだけ。

 

だから、これだけ自分と無関係の物事を読んで居ても特に自己に影響がないのかも。響いているけど芯は変わらないというか。

 

読むという行為が精神分析と文学理論で通じるところはどこなのだろう(どちらにもフロイトさんが出てくる)と思いつつ、本日はおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。