ひとたらし

 

 

21:32から。

 

仕事が立て込んでいる。

 

いや、昨日は夜ご飯担当の満月さんが外食にしようというと提案して、仕事が終わって外食になったらお風呂読書とか文章時間は度外視でええわとしたから。ここでも時間を気にすると、満月さんが変な罪悪感を持ってしまう。

 

ビールの値段がどんぶり勘定で安くてなかなかいいお店。

 

 

仕事の立て込みもあるのだが、日記時間を度外視するまでには至らない。

定休日まで出勤になりそうで、明日行ったらのべ7連勤になる。明日はまた山に行こうという話だったのに、このままいくとおじゃんになりそう。だからといって、満月さんは淋しがるだけで、会社に対して憎悪めいた悪意は持たないと思われる。僕も同じ。想うとすれば、見習いから外れていたら、こういうのはきちんと対価になったろうに、くらい。

 

お客様に対する見立てが甘かったとも思わないから、きっとお客様側で何かトラブルが起こっているのだと。社会的な動きより、優先すべきところが出てきたのだろうなと。

 

 

本日はもともと休みで、このお客様の手続の為に出勤をしていたもんで、なんとなく精神が緩んでいた。雑談しているときに、スーパーな事務方のお方を「裏番」と読んでしまって一頻りいじられた。ということで、尊敬を込めてあだ名を裏番の方にすることしよう。

 

夕方トラブルが起こりつつ、店長が他の仕事で出てタイミングで裏番の方がお話にやってきてくれた。

 

「仕事楽しい?」って。

 

僕は強がりでもなく楽しんでいるし、なんならこの今の状況でもここからどういう風に流れているのだろうと眺めるくらいの余裕はあるから、楽しいですと答える。

 

「仕事人間なんだ」、と言われたが、「いやいや、仕事以外でも普通に楽しんでます」と答えた。読者の方はもう読んで分かっているだろうからあえて説明はしない。

 

裏番の方の自己観測だと、自分は仕事が嫌いだけど、勝手に身体が動くとのこと。ほんとはもっと地味に淡々と働きたいのだとか。でも、店長がこの人は存在感が凄いって言っていて、たしかに同意見。もともと持っている存在感が地味に過ごすことを赦してくれないのだろうなと。

 

お話はまだ続く。

 

「硯さんには話し易いんだろうね、だから、色んな人が仕事とは無関係の事情めいたことを投げてくる、しんどくない?」みたいな。なんだか村上作品めいてくる。

 

僕が返したのは、「しんどくないですよ、人の話を聞くのは好きですけど、別に同情はしないので。同情したところで相手の状況が改善される訳でもないし。」だった。

 

たしかにそうだよねーという話で一頻り盛り上がったのはさておき。

 

なんだかんだ、僕は自分にすら同情していないなとふと思った。

ノルウェイの森」の永沢さんの発言じゃんとか思いつつ、自分に同情したところで状況が変わる訳でもないし、もしかしたらワンチャン自己同情に同調してくれた人が助けてくれるかも、くらい。

 

満月さんには仕事のお話もいっぱいしている。

全然煩わしそうに聞かないもんだから、つい話してしまう。僕の語りが英雄譚でもないし悲劇的でもないからかもしれないけど。

 

 

満月さんのプライベートの人達も含めだろうけども、硯さんは「人たらし」だと言われる。

 

この人たらしを言語化できるかという試み。

 

人をたらすって、割と技術的な側面もある。

この人は自分の話を聞いてくれるんだって思わせるような心理学的なスキルって結構ありがち。でもここの表層スキルって、関係性が継続するというより、単にその場をこじらせないというだけのような。ついでにいうと、この人なら話せるという「人」はきっと自分と同じ標準ではない。自分の話を一方通行で聞いてくれる人って、きっとAIでも代替できるだろうし。人の話に気持ち良く反応してくれるAIの開発はコストかからなそう。

 

僕がほんとに「人たらし」なのかなんて、具体的に接した人でないと分からないし、存在感を隠しながら生きてきていたから、だいたいの人にとっては僕はきっとモブでしかないから、なんの証拠も提示できないという難しさ。

 

宵顔さんはどうなのだろうな。

個人的には、もう僕の文章なぞ読んでおらず、山の民としての生活に傾注していると良き。

 

いや、なんなら昨夜さんとかも、僕の文章読まなくても良いのではと勝手に思ったりする。

 

 

 

読みたければ勝手に読めば良いという手放し観。

 

最近はもう存在感を隠すことは辞めて垂れ流し気味だから、なんとなく観測できなくはない。

 

言語で定義するとすれば、自分に同調してくれる人にたらされる訳ではない。

むしろ、違いを前提としつつ、人生劇場上全然関係なさそうなのに、自己の立場を理解してくれそうな人が、人たらしなのでは。

 

人と人は同じ趣味だとしても突き詰めれば別の存在だし、別の存在の発言なんて普通は目に入らない。同じような存在だと思うからこそ意識がそこをまなざせる。

 

僕もお仕事だと視界がとんと狭くなって、仕事上はそこを見て当たり前というところを無茶苦茶見落とす。視野を狭くするのがお仕事だという前提もあるのだが、それにしてもやたポンコツだと観測している。

 

基本的に社会不適合者なんだよな。

(これに同情もしていない)

 

同情とか同調をしないのは、下手をすれば薄情に捉えられるし、自分の世界だけで生きている人にはなんとなく打っても返って来ないと捉えられて、こういう人はたらせない。

 

と思わせて、こういう世界観の人もやんわりたらせている不思議。

 

結論としては、僕がほんとに「人たらし」なのかどうかは知ったことではなく、自分で生きればそうなるのであれば、そこは受け入れるしかないし、人の話を聞くのが好きだという階層が社会的な立ち位置を越えて深層に至るのは楽しいなというだけな感じ。

 

このたらしを女性に向けることはないのかな。

女性に向けるとややこしいことになる。

 

満月さんが居るし、子種を蒔き散らかしたい本能に従う気もないし。

 

本能と言えば、他人の不道徳に苛烈に攻撃すると、脳内で報酬系のホルモンが分泌されるらしい。なるほどーと思いつつ、個人的にはどうでも良すぎて参加する気にならない。

 

人を好きだという感情もきっと脳内ホルモンが影響している。

その相手に対して何かをするという動機として機能するというか。

 

きのうの深夜、ふと起きたら満月さんが布団を被っていなくて、死体のように体が冷えていた。僕が布団を占有したのかと自分の倫理を疑ったが、どうやらそうでもないらしい。蒲団と自分の体を被せて、せっせと身体を温めながら寝た。この行動に脳内ホルモンの報酬系は分泌されていないと思われる。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。