のんびり

 

 

 

21:55から。

 

昨日定休日にも半日会社に行った。もちろん、ここと昨日の日記が無いことに因果関係はない。まぁ言語的辻褄なんていくらでもこじつけられるから、昨日は寒くて日記が書けなかったとかでも理由としては成り立つ。

 

本日は普通に仕事。スイッチ入りっぱなしで大丈夫かとは思わなくもないが、このスイッチも、物理的にやる気スイッチとか仕事スイッチがある訳ではなく、概念として便宜的にそう読んでいるだけだし、体が元気であれば問題ない。

 

ほんと、好きなように飲んで食べて吸っているのに、とんと体調が悪くならない。悪くなってないという気分だけなのかというとそうでもなく、健康診断でも問題ない値だし。

 

身体が強いのもあるのかもしれない(もちろん、変に自信を持っている訳でもない)が、それよりもメンタルが強いのかもしれん。メンタル弱っぽいのは、そうあらねば人間味が無くなってしまうというライフハックの装いなのかもしれないとか思ってきた。

 

ちゃんとまともに傷付くし、罪悪感みたいなものもあるけれど、これは肉体の芯まで響いていないのではないか。

 

 

さておき。

 

本日は仕事の話は省略。

こんなのなくても日記は書ける。

 

満月さんが関西に何かの賞を受けにいって道頓堀で粉もんを食べて帰って来るとのことアーメンは粉もんでは無い気がするが広義にすればあるいは。ということで、大昔の自分がやっていた料理の仕方で作った。安い物からメニューを考えて、ぱぱっと作る。

 

えのきが安かったから、えのきポン酢にする。なんとなく乾燥わかめとカイワレ大根を加えてみる気分。ポン酢は常備していないからりんご酢とだし醤油とほんだしブレンドして作る。メインは豚こまとピーマンとキャベツを塩コショウで炒めただけ。塩コショウだけでも十分味がある。あとはベビーリーフサラダ。マヨネーズをかけるのに飽きたからてきとーにドレッシングを作った。

 

僕が料理を作りだした頃から比べると随分洗練されているが、別に料理が上手くなる為にここに至った訳ではないのだよな。

 

第一次料理ブームは、大学に入って1人暮らしを始めた頃、キッチンが自分だけで使って良い場になったとき。食材を切って売っている青椒肉絲とかの調味料を使って作ったり、ご飯を炊いてみたりする。これは早々に挫折した。だって美味しいご飯を作ろうという気概ではなく、単にやってみれば良いという動機だし、ここで言えば、スーパーの半額弁当とかカップ麺の方が美味しい。

 

第二次ブームは、金欠もあった。お金をそこまで食費にかけるのは嫌だなと、おつまみとか弁当とかを自分で作るようになって、卵焼きやらたこわさやらを自家製しだす。ここは面白くて、試行錯誤が捗った。調味料を常備しておけば、食材費だけでかなり安く済む。たこわさだって、たこは高くても白だしやらわさびチューブやらが常備されていればなんとなくそれっぽいものを作ることができるし。

 

ここでどれだけ名前の無い料理が生まれたことか。

 

今は第三次ブーム。

 

1人時代に培ったスキルを転用して、相手にとって美味しいご飯を作るという感じ。

誰かにご飯を作るとき、せっかく自分が作ったのだから美味しく食べて欲しいみたいな感覚はとんとない。美味しくなかったら要改善というだけであって、プロじゃないのだから、多数に美味しく食べられる料理を作ったとて、具体的に食べる相手が美味しくなければ意味は無い訳であって。

 

残されたらやたら怒る人は、食べられる側より作った側の労力とか甲斐みたいなところに重きがあって、相手の為とか言葉で言いつつ、相手に対する嗅覚とか視覚が欠けている。

 

別にそれはそれで世界観としてはアリだと思うのだが、そんなにしんどいなら外注した方が当人の心労的には良いのではという気がする。もしくは、きちんと料理を作ったことが無い相手と対話してみるとか。これだけ工程がかかっているし、この工程を具体的な賃金なくやっていますがみたいな。

 

 

味覚って当たり前として享受しているから、ある程度美味しい不味いが形成された後に不味いを受け入れるって難しい。でも、この当たり前って別に自分が決めて作り上げてきているものではないから、外的というか受動的なものだよなぁ。

 

料理を作らないといけないという価値観もまぁまぁ受動的だと思うが、僕は仮にお金持ちになったとしても、自分で作ることは辞めない。自分の身体を形成する物を完全に外に頼るほうが不安というか。

 

 

この話どうでも良いのに、ちょっと長引いてしまった。

いや、どの項目でも掘り下げようとすればいくらでもありそう。

 

 

やれやれ。

 

話し言葉というか聞き言葉と読み言葉って全然違う次元にあるのだろうなと思ったらちょうど僕が初めて買った「左川ちか」さんの記事が出てくる。認識によって見える世界が変わるのは当たり前だが、世界線も自分の近いような次元の人と関係することになるのも普通の事なのかも。少なくとも、僕はこの線の人生劇場に生きている。

 

 

言葉の話。若干お仕事のこと。

話しているときは世界観が独りよがり感はあるが疎通はできる。のに、メールで送った言葉は全然読まれていない模様。これって、文章は目が疲れるから読めないで済むような話ではない。社会的にやり取りしている相手が送った言葉を読み取ろうとすらしていないのかと。

 

もちろん、仕事で使う書き言葉は伝える事項があるから、ここで書くように意味を持たないようには書いておらず、無色に伝達事項のみを書いている。

 

それにも関わらず、相手にとっては僕が連絡していないということになっているらしい。

この世界観のペースに合わすと悲観的な世界観に巻き込まれるから、距離を置いて淡々と接するしかない。

 

これは極論だけど、話す言葉と書かれる言葉には質感の違いがあって、好みがあるのだろうなと。料理における味覚と同じ次元の話で、普通は話している言葉の方が疎通できている感覚があるはず。

 

僕は話し言葉よりも、書き言葉の方が好みかもしれない。

 

話し言葉って話す当人の当たり前の語彙の中で、別に意識しなくても反応としてぽんぽんキャッチボールができて繋がっている気分にはなれるけども、これって突き詰めていくと、相手が誰であっても変わらないことになる。

 

これこそが話し言葉の効用であって、世界と繋がっている気分になれるから、別に構わない。

あんまり時間の概念がない言葉が交換される世界。

 

書き言葉になると、そこには紡ぐ時間がある。何が書かれているかの前に、その間に風情があって良き。これも料理と似ているが、読むだけの人には書かれるまでの間のことは感知できない。本日帰り道に銀杏の葉っぱが雪のように積もっている光景があったのだが、書き言葉と似ている。

 

短歌を交換する平安時代(合っている?)の時間間隔とても惹かれる。

 

かといって、その間を読み取って欲しいみたいな人と交流するのは、自分が時間かけて作った料理なのだから美味しく食べ然るべきとなってきて大変。そういう話ではなく、お互いがお互いの時間を尊重できるのが良いという話。

 

 

老後の話。

 

ほんとは冒頭にこれから書こうと思っていたのだが、予定通りに書けた試しがない。

そういう風に書いていないからだが。

 

文章を書くことと読書は僕の中ではよく似ている。肉体の動きに準えると散歩。僕が老後に仕事しなくて良くなったときには、毎日物理的に散歩するだろうなとふと思って、そこから出て来た思索群。

 

散歩しつつ、縁側でお茶を飲む。

変な話、普通に社会人として働いているこの日々でも同じような感じだなというところから、読書と文章が散歩に近いということを発想した。

 

努力って世界線で言えば、今の位置から違う位置に自分を変えていく行動であって、ここには今の自分の立ち位置がよろしくないという動機がある。向上心と良い風に評価したところで、より良い位置に動きたいという未来からみた自分を否定している。

 

散歩だって、位置は変わる。もちろん元の場所に戻るから散歩なのだが、散歩で新たな発見をしてしまったら、もとの場所に帰っても、もともとの自分とはズレている。これを毎日やっていたら、自分の位置に対して退屈だという評価が起こるはずもない。

 

ついで言うと、速度が遅いから、相対的に誰かの動きが遅くてやきもきするということもない。

 

僕が一番遅いから、世界の動きの方が早く見える。

 

 

もっと面白い話を量産できれば読者さんも増えていくのかもしれないけれど、そういう世界観ではどうしても生きられない模様。

 

まぁ、こんな感じで勝手に動くだけなので、気が向いた時に読んでいただければ幸いです。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。