影に響く

 

 

22:07から。

 

満月さんがすき焼きを作ってくれた。

美味しくてぺろっと食べ尽くす。

 

味は感じるし、ビールの味もする。

体感は特に狂っていないし、元気なはず。

 

にもかかわらず、なんとなく調子が出ていない気がする。

疲れが溜まっているという解釈もありうるが、生物的にはそれほど疲れていないから採用できない。それに、疲れが溜まると毎回こうなるのはとても具合が悪い。

 

次から次へとイレギュラーなお客様が回って来る傾向は仕方ない。

店長も良い加減そういう人達とは距離を置きながらなんだかんだ相手をしないようにもっていった方が良いというアドバイスをしてくれる。アドバイスというかもはや指示かな。

 

これはもちろん、相手によって仕事を変えるのではなく、仕事になりそうなお客様に時間と労力を使った方全体をよく回すことがという意味。なんだかんだ社会関係の中でのやり取りだから、最低限の社会的行為ができないというか、プライベートな領域が社会関係にも延長されている人というのは、社会的な関係の構築が難しいということ。

 

生活を移動させるってエネルギーも労力も使うこと。だからこそ、無理して知らない人とスケジュールを調整する訳で、マイペースがまかり通るような領域でもないよなと。

 

ポジティブな動機だろうがネガティブな動機だろうが、相手のペースに合わせ過ぎず、歩調をお互い合わせていけるように調整しないと。

 

別に直前に予定が変更になるとかは、事情によっては仕方ないことだからここはどうでもいい。そうではなくて、この予定の変更を自分の中で仕方ないとして、相手(世界)が合わすのが当たり前だという感覚を持っている人は厄介だなと。だいたいの人は自己側の事情が不可抗力だとしても、まずはお詫びの一報を入れると思われる。だって、その事情、約束をした相手とは無関係のことだし。

 

お詫びを入れても納得しない人も居るだろうが、こちらも厄介。納得しなくても最調整できる人は社会人としてまともか。

 

ここはそうすべきという話ではなく、なんというかそういうことができる人が今後の評価経済上、有利に評価されていって優遇されていくのだろうなというだけ。その輪に入れないのは自己責任になる社会はどうなのだろう。まぁ同じような層が寄り集まるというのは、仲間がたくさんできて良いことなのかも。

 

沸点が低いお客様に対して運が悪かったと思ってしまうのは、なんというか自分を変化させるとっかかりが無くて物足りない。顧みるとしたら、僕がその人を沸かすことが無い接し方が無かったかというところ。信用できない人だなという評価が態度に出ていたに違いなく、それが伝播してしまっていると解釈すれば、内心はともかくこちらはきちんと対応するようにするという能動的にコントロールできる領域のことになる。

 

だから、できることをしていない自分に不信感が生じてしまって、なんとなく不安(定)なのかも。自分を信仰対象にしないのは当たり前のことだが、自分に対して無神論者なのも極論になる。

 

(まぁ、もっと広い領域であれば沸くとか沸かないという以前に関わらないという選択になるのだが)

 

お、ちょっと調子が出て来たかも。

 

今日の感じは、言語化すれば「座りが悪い」。何と何がしっくりこないかは微妙なところだが、なんとなく乖離している感じ。だいぶ落ち着いているし、この感覚に絶望するまではいかない。

 

自己像と現実的な自分の動きが噛み合ってないときにこの感覚がやってくるのかなと解釈してみる。

 

自己像と現実的な自分の動きであれば明らかに現実なのは後者。自分がそれを体感しているというのが何よりの証拠だし。前者は概念としての虚像でしかない。もちろん、経験とか他人からの評価とかの状況証拠を積み重ねた現実味があるのが自己像であって、ここから現実的な動きが生じているという因果関係はだいたい正しい。

 

僕はあんまり自己像に重きを置く立場ではないから、経験も評価も現実的な自分の動きの一部の方であって、自己に像はないとしている。

 

あれ、では、何と何が乖離しているのだろう。

 

従来の世界観といまの現実感とか?

 

たしかに、一流の営業マンなのだろうなという店長の世界観に影響を受けて再構築されている部分があるとは思う。なんだっけ、何を話すとか何を聞く前に関係性を作ることを横文字で言っていた。

 

別にこれは営業だけの話ではないとするのが僕の世界観。

 

相手に対する印象をコントールできるのであれば、これは自己像の再インストールも可能であるのではと。そうやって試行錯誤した上で、最終的にコントロールできない領域がほんとの自分だと考えれば、色んな苦楽の経験も自分に至る過程のようになるし、逆に他人をある程度操作することも罪とは言えない。

 

人生を省みると特に目的なく相手を操作していると自覚される事象が散見されて、その度に自分は嫌な奴だなと嫌悪感に陥っていた気がする。でも、決断を操作させることは、言い方を変えれば他人の影響によってその人の判断が変化しただけであって、ここには善悪が無いのかもしれない。

 

これってかなり微妙だとは思う。

例えば犯罪行為についての決断に影響すれば教唆とか幇助の犯罪になるし、影響の仕方によっては民法上の詐欺とか消費者契約上の違法行為になりうる。

 

あくまで社会的な合理的判断を後押しするという限度のお話。

だとすれば、私的領域での合理的判断にも影響を及ぼせる訳で。

 

ここで人に影響することができる人がこれを善だと自己を信仰してしまうと、宗教家になるに違いない。僕はそこまで自信がないから宗教家にはなれない。自分にとって良いことが相手にとって良いとも思わないから、こうした方が良いとかも特に言わない。言って良い立場であれば最低限のリスク回避はアドバイスするかも。

 

まずは自分のどの部分が人をたらしているのかの解読作業が必要なのかも。

使うとこでは余すことなく使えばいいし、使わなくて良いところでは抑えることができるようになるし。

 

なにやら凄く抽象的になってしまったような。

 

座りの悪さは過渡期のブルーみたいな感じで気にしなくて良いことだと自己を納得させただけの文章。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。