げんじつ

 

 

22:24から。

 

なかなか遅い。

 

明日行ったら年末年始の連休。明日は満月さんの実家に行くかもしれない。満月さんは休みではないから、昼間お勉強と読書をして夜は節約料理で良いような気もする。ある意味ぐうたら生活。インプットにちょっと飢え始めている感じ。

 

 

本日もお休み。

 

朝は満月さんと同じくらいのタイミングで起きて、豚丼をこしらえた。僕は納豆かけご飯が食べたかったから別メニュー。買った豚肉が脂身多くて、脂身が苦手な満月さんにちょっと申し訳なかった。夜にも余っていたが、使い切らないと腐るか冷凍で化石になるから、てきとー焼きそばを作って平らげた。

 

満月さんの夜ご飯はリクエストがあったボロネーゼ。ミートソースとボロネーゼの違いも分からないし、ケチャップを使わずに作って欲しいとのこと。レシピを調べつつアレンジしつつ、それっぽい物はできたと思う。味が薄いのか濃いのかは不明。基本的に自分の目分量だと薄味になるから、煮詰めて水分を飛ばしたことでちょうど良くなったのではないだろうか。

 

日中。自転車で往復6キロくらい漕いで、書けない処に行って(性的ではない風俗的な意味)、kindle読み放題で3冊くらい薄めの本を読んだ。漫画のように文字を読む。

 

インプットに飢えているというのは物理的な空腹ではないから、本がいっぱい読めるということは、便宜的に精神的に腹が減っているのだろうなと思っているだけ。まぁ、肉体の反応でも精神の反応でもそれを解釈するのは意識だから、あまり変わらない。後者が現実的でないだけで。

 

現実とは「対話」によって構成されるという、社会構成主義の入門書をざっと読んだ。個人的にはあまり目新しくないというか、哲学とか文学がやってきたことだよなとは思う。

 

曰く、人が捉えている現実は、自明な物ではなくて、対話によって現実観として概念になっているという話。分かりにくいな。端的に言えば、社会に承認されているのが現実だというということ。対話というのは言葉であって、言葉には社会の手垢が付いて居るとまでは言っていないけれど、現実は社会という舞台のなかの装置みたいなもの、ということも特には述べられていないから、国語の問題だったら点数付かない。

 

ちょっと真面目に。現実が社会によって構成されているという世界の捉え方は、生の人間にとってほとんど真理だと思う。それが嫌で非現実に旅行なり迷子してみたところで現実の範囲が拡がるだけであって、現実から逃げられる訳ではない。最初は新鮮だったとしても、馴れて当たり前になったら今までと特に変わっていないことに気付くだろうし。

 

だったら、現実とはなんぞやとなってくるのだが、個人的には別に現実を気にしなくも良いのではという気がする。社会にはそれぞれの舞台があって、その舞台に適うように振る舞う装置として生きていかないといけない部分はあるけれど、その部分で自分を捉える必要もない。舞えないのであれば移動すれば良いし、その時に隣の芝生、いや舞台は輝かしいなんて思う必要もない。

 

だって、この筋で言えば現実とは泡沫の舞台だし。

 

たぶん、社会構成主義ってそんなに一般に浸透しない。自分の土台が揺らぐような見解に寄ったところで別に自由にはなれないし、ホメオスタシスが更新されるような○○ニズムとかならともかく、恒常性が揺らぐ世界に生きたいとはあんまり思えないだろうし。

 

ちょっと個人的にこの考え方が面白いなと思うのは、法律学と繋がっているところ。

法律って社会に承認されているから現実として承認されている。ここでの本質は対話というよりも「関係」。いや、同じことか。

 

利害調整の極致というか、だからこそややこしい。

僕がこの方法論で生きられないのは、対価関係がちゃらんぽらんだからなんだよな。恋愛が対価と書いたが、厳密には対応くらいの柔らかさなのかも。

 

ただ、考え方を使えないかというと別の話。

そこで生きなくても道具として用いることは可能。

 

あぁ、ご飯作らないと。

こういうラグって書き側だったらアウトだと思うだが、いかがだろう。

 

特に絶対書かないといけないと思いながら書いていないし、流れで書けなくなったことは井戸の底に落ちていくだけだから問題はないとしても、書いている最中に他のことをしてすぐ戻って来られる人ってなかなか居ないような。

 

ともあれ。

 

法律ってルールを規定しているけど、ルールが集まって束ねられると制度になる。

制度は別に現実ではなくて、現実として成り立つ為には存在意義が必要になってくる。この存在意義を専門用語だと趣旨と言ったり。何故それが現実として存在していないといけないのか。

 

この考え方自体は、世の中に蔓延っている制度諸々に適用できる。

 

満月さんがXを眺めているのを横目で見ていて、高速道路のサービスエリア?を有料化するという話があるらしい。お互い馬鹿だなというところで一致したのだが、ここをもう少し掘り下げる。

 

高速道路の制度って、歩行者が居ない道路で、車の運行を円滑にすることによって世の中の移動を滞りなくするという存在意義があると思う。もちろん維持費がかかっているのも分かるが、基本的には国庫(税金)で賄われているだろうし(知らんけど)。

 

で、自動車の運行を円滑にさせるためには、運行者のコンディションをなるべく万全にして安全にやってもらう必要がある。変なコンディションで高速道路に乗るのは個人の勝手だが、そんな人が乗ってくると事故のリスクが上がるし、事故が起こったら高速道路の運行が滞って、料金が取れなくなる。

 

この視点からすれば、SA有料化って運用者の財源を調えると思わせて事故のリスクが上がるだけだから、馬鹿だなぁと思うだけ。人って疲れとお金だったらほとんどお金を取るだろうし、休憩所が有料になったら疲れているけどももう1つ先まで頑張るかとなると思う。仕事で移動しているトラックとかも、費用はなるべく抑えたいとなるから今まで使っていた休憩ポイントは減らすしかないだろうし。

 

高速道路が渋滞したら料金の1部が返って来るという制度は満月さんの発案なのだが、バランスが取れていると思う。高速道路の存在意義の円滑と安全の安全にやや振れているが、円滑が滞っているときに安全では居られないから、運行者の心の安寧に重点を置いて、事故のリスクを減らすという感じ。

 

これって、別に僕の感情から来ているのではなく、単に制度趣旨から考えているだけ。

高速道路、教習所以来乗ったことないし、運転者に対して共感できる感情がない。

 

 

もう寝よう。

 

もっと考えて過ごしていくかな。

関係になると思考を放棄する傾向にあるから、もうちょっと身動きできるようにならないと。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。