22:09から。

 

 

なかなかの作業量。

1/3の成果という意味では、まぁまぁ。そしてまだまだ。

 

ミスに関してはあまり気にしないようになった。

知らないものは目を凝らしても点検できないし、こんなのはそのうち分かって来る。そんなことより、家計の存続(笑)の為にどれだけ給料に還元されることができるかの方が大事。

 

もっとできるようになれば全体の円滑も気にしていく感じになるはずだが、いまはそんな知識もスキルも無いから、頑張ろうとしても意味がない。ミスを無くして行くということにもあんまり意味が無い。完璧主義だと身動きが取れなくなるから、寧ろなるべく失敗して、セーブポイントを作って、次にそれをしないという意識で良い。

 

という意味で言えば、人生上の失敗もそんなもんなのだよな。

帰って来られない失敗だけ避けるようにして、他の失敗は人格に対して自傷自害しないように意識する。

 

意識というか無意識の恒常性って、おそらく長さとか頻度とかの横ではなく深度の上下感なのかもしれない。どの精神の起伏を当たり前にしているかというのは、意識で操作できるものなのかは不明だし、もしかしたら瞑想で浮上するみたいな技法があるのだろうか。

 

いや、スピリチュアルの話を書きたい訳ではない。

 

あくまで実践的な話。本日仕事から帰ってきて3品作れたのは、時間がそんなに無かったからだよなぁという解釈は、時間が有ったらいっぱいできるのにみたいなところには無いし、無いものはないできる。

 

これって、割と精神的な上下の視点というか視座によって変わる。別に精神は無重力だから上下左右みたいな移動は無く、あくまでイメージ。下の方に居る時は、できない因果を世界に求めるし、上の方に居る時は自分に求めるみたいな。

 

他の人は知らないけども、ニーチェさんも同じようなことを書いていた。ルサンチマンは病いの原因を外に求めるのだが、それは自分のせいだと言う暴言によってルサンチマンの方向が転換されるとか。続きが気になる。

 

問題は、こういう上下の中で基本形を何処に置くのかというのが、果たして意志とか環境で決まるのかと言う話。今、何かの本の解説動画を垂れ流しているのだが、人の人格の傾向は環境と遺伝で決まっているとのこと。これもある意味原因を外に求める解釈だと思うのだが、おそらく化学的な人格観として定説だと思う。

 

ただ、個人的にはほんまかと思っている。

意識的に、何か人格を変えようと思って実践した訳ではなく、人格を気にせずに生きるようになったらこうなったというのは、なんなのだろうと。

 

小躍りしながら生きられるようになったことにきっかけを求めずに、単に世界線が移動したという解釈にしている。「シュタインズゲート」みたいにイベント事が変わっていくというお話ではなく、意識(視座)がちょっと動いたなということを世界線の移動と見ているから、たやすく移動する。

 

友人との飲み会も移動だし、読書とか観劇とかもそう。人生劇場とは離れているかもしれないけども、精神は物世界に存在している訳ではないから、影響とか劣化とかが物理現象と同じ訳がない。

 

 

友人は薬品界隈の営業であって、僕は新しいジェネリック医薬品の成分とかは知らないのだが、友人はシュールレアリスムを知らなかった。どちらも知らないことは罪ではないし、なんなら世界線は若干ずれている。ここを同期しようとするのが縁としたい。

 

友人と話していてちょっと違うかなと思ったのが、僕が「最近の若い子は化粧の仕方が同じで、顔付が似ている」と言ったら、「それは俺たちが経年して見分けが付かなくなったからだ」と返したところ。見分けは付くとは反論しない。別に世界観を同期したところでどうにもならないから。

 

見分けは付くけども個性がないというお話。

でも、化粧って見分けが付かなくする機能もあるのかも。見分けというか同期というか。

 

そういう面で見ると、僕は外に対してはきちんとアイメイクばしばししている人のかけた時間を見てしまうのだが、内側の満月さんに対しては、化粧して肌に負担をかけるよりもすっぴんで可愛いとなる。満月さんが外側だったら、きちんとやった方がそそるのかも。

 

化粧は同調圧力でやらされているという捉え方も充分アリ。それをしないと社会と同期できないようになっているのはある意味たしか。逃げても良いけれど、そうなると類としての力は使えなくて、個となるというだけ。個になっても類としての評価の良いとこ取りしようとするから変な感じになる。

 

化粧の起源は、神様と同期する儀式だろうから、男の化粧が無くなったのは、神様の世界から脱退させられたとも言える。

 

あんまり1つのことでまとまった話はできないのでここまで。

 

 

薬物戦争の記事が気になっているのだが、1息で読める時間が無かったので続きは明日読む。「国家の思惑によって国民の健康()が害される」という風に抽象化すると、アルコールだってそうだし、健康に良さげな三食文化とか、ここまでの1時代もそうだったと思う(これはタブーだろうな)。

 

個人的には健康に対する善悪論で語るより、何がほんとにアウトなのかで語るところなような。罪悪感とセットで摂取するような経口物はだいたい悪影響。

 

右耳で人格の形成論の動画を聞きながら(途中でつまらなくなってやめた)左耳で、友達が居なくても幸せになれる人の動画を聞いていた。知性が高い人は友達付き合いよりも自分で世界を追求していく方に優先順位が置かれるから、人間関係の調整が面倒くさくなるとかなんとか。その後、天才には1人友達が居るというあたりで止めた。

 

知性は高くないけれど、なんとなく分からなくもない。

 

僕の場合は、多人数とプライベートで付き合うようになってくると優先順位がバグるということにあった。その頃読書もそこまでしていなかったし、文章も書いていなかったら別に帰ってこなすルーティンも無かったのだが、それでもほんとしんどかった。

 

いや、某試験のお勉強はしていたか。

 

何がしんどいかも意味分からないし、暇だろうって周りは平気で誘ってくるし、断るという概念が無いから悪循環。その場で記憶を飛ばすまで飲んで現実感を無くすくらいの処方箋しかなかった。でも体は壊れなかったから退場することは無い。良く生き延びたものだ。

 

これは今や昔の話なのでどうでも良い。

 

でも、この世界観が当たり前であるという視座は未だにちょくちょく出てくる。

 

恒常性としてはもうこの世界が当たり前というのは無さそう。

誘いは嫌なら断れるし、ちゃんと楽しいことなら読書と文章は無くても良い。

 

 

こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。