ほんと

 

 

 

いつも書きたりないと思うのは結局言葉の限界そのものなのだろう。この不都合さがとてもちょうど良い。うまく扱えないからこそ試行錯誤する余地がある。

 

任意性というは別に自分が自分にとって都合が良くなることとは違う。することもできるし、しないことができるという、選択が等価になること。どちらの選択肢も等しいのであれあれば、その選択は任意だ。ある意味重要だとされていることをどちらでも良く、ざっくばらんに言えばどうでも良くすることだから、大人みたいな色々きちんとするという規範とはかけ離れることだけど、そうしなくても良いけどそうしている方が自分を制している気がしないでもない。

 

しなければいけないで律するといえば、夏目漱石さんも自分を突き詰めなきゃいけないとか、自分として生まれたからには自分を生きねばみたいな義務的な言い回しが多いけれど、当時からすればかなり革新的だったのだろうな。だって、今の人が読んで需要があるのだから。僕が好きなのは、学問は自分を上等にするものであって、学問しても自分が更新されないのであれば学問なんてしない方が良いというニュアンスのフレーズ。学問は知識の集積のためにあるものではない。ごくごく個人的な話に限定されるのかもしれないけど、自分が発見されるもの。自分がどこまで分かるかというところと、自分がどれだけ曇っていたのかというところと。

 

あと、見解が更新されないのは生きていないのと一緒だというのも好き。

 

任意性を突き詰めれば別に自分を生きなくても良いということになる。誰か外から見られた自分を自分として生きることを選んでも何も問題はない。個性がないといけないとかそんなのもどうでも良い話。ただ、自分が個性的だと思っているとすればほんとに個性的なのか吟味する必要はあるかもしれないけど。

 

個性の定義は奇抜ではなかろう。

 

任意性の1つは、ここに在るように書いても良いし書かなくても良いこと。文章にはエネルギー消費があるなんて一般論はなくて、単に認識のお裾分けというか好意の開示というか、剥き出したい欲求が原動力になっている訳ではない。独り言の文章化なんていくらでも書ける。だって、非言語の思考はほぼ無限だから。

 

あと、たぶん読んではいないと思うけど、願いだって叶っても叶わなくていいという前提。これって面白いところで。例えば僕がずっと勉強している某国家試験に対して、叶えるために勉強するものだってずっと思ってきたけど、そうじゃなくて、結果はどうでも良いけど準備だけはするという方向性になったら、かなりクリアになった。

 

結果ってすなわち現実化だろうけど、起こることは起こるし、起こらないことは起こらないし、起こったことが覆せないと同じように、起こるか起こらないかは操作できないよなって。

 

そうなると、願いは単なる確率とか可能性になる。

 

添い寝の現実化もあってもなくても良いこと。あったら嬉しいだろうけど、なくても好意に変化はない。この現実化に向けて何か操作するということもないし。準備と言っても対人関係の準備って、覚悟とかそんなのしかないような。

 

準備した言葉が通用したことは仕事でしかないわ。

 

この、結果を確固したものとする認識と、確率的なものでしかない認識って、ニュートン力学量子力学の違いみたいで面白い。自分がこうしたのだから現実はこうあるべきだみたいな。

 

さておき。

 

現実と内心の話。

 

僕は現実的に興味がわいた人に対して、この人何処かで文章書いていないかなって思う。でも、そういう人に会ったことがない。まぁ、ここは分かる。自分のことを書くよりも大事なことがいっぱいあるし、おそらく書いたとしても手書きの日記帳、もないか。

 

つまり、現実的に言葉をうまく扱っている人は、特になんの効果もないところで書く意義がないのだ。言葉は伝達とか指示とか現実的な意味があるところに遣うためのものであって、自分の中身を発掘するためのものではない。

 

これって、僕みたいな不器用極まりない人物からすれば、かなり自分がぼやけてないかと思いつつ、すげーなって思う。

 

もちろん、自分の歴史を語ってくれる人も居て、面白いのだけど、僕は沿革が知りたいなって。

 

 

文章から現実になった例はいくつかあるのだけど、こっちの関係の方がうまくいった。最終的にはうまくいっていないのだけど、文章から入る方が人の中身には近そう。

 

ここで思考実験。

 

現実的空間で関係している人がネット上で文章を書いていたとして、文章と現実が矛盾している時、どちらを信じるか。

 

たぶんあんまり想定できないと思う。現実に充足していない人が溜まるのがWEBの深みだろうし。では、その不満が現実の人に見られたとき、どっちが自分の本当と見られたいか。

 

僕は人の現実的な振る舞いは節度を前提としたものだと思っているから、これも現実。例えば文章で、僕がボロクソ評されていたとしてもそれが現実で出てこないのであれば現実としては問題ない。

 

ただ、どれが人の本当かとなると、僕は文章の方を推す。文章というのは少なくとも500文字以上は構築してほしいところ。短文で自分のことを抽象的にぼやかすのは誰にでもできるし。

 

人の沿革を文章で知りたいという欲求はある。沿革は単なる自分史ではなく、今の自分がなんでこうなったかという経緯のこと。これを上手く語れる人居る? 

 

試み。

 

男児が、愛媛の辺境に生まれた。この地域は二年前水害で有名になったから、知っている人は知っているかもしれない。そうして、2つ上と2つ下の女に挟まれて育ったこの男は女性の現実をもともと知っていたのに理想に走って、なかなか痛い目を見る。

 

これ以上は今は書けない。けど、僕は自分の諸々の現実の体が、どういう風に出来上がっているのかはまぁまぁ分かる。なんで自分がこういう精神性を持っているかって、環境要因を探っていけばだいたい見える。

 

魂とか輪廻とかを信じざるを得ないのは、環境要因でない自分が居ること。僕の家族環境って、無条件でどうにかするってことはなかった。でもこれって当たり前だから、僕も条件付きなんだろうなって学習して過ごしていたけど、僕の本質はそんなことはなかったという矛盾。

 

かえってくるべきという規範的感情もあるけど、それ以上に返ってくるかどうかなんてどうでも良い。

 

これって環境で学習されたことでもない。ほんとにこれで過ごして良いのかって疑うくらいの人格。だいたい楽しいし、切なさも辛さも、天気みたいなものでしかない。

 

変な話、なんで皆そんなにしんどそうなのだろうって思う。しんどいのが人生だって言われても、しんどさってって人それぞれだと思うし。

 

任意性の最終形は、生きていても生きていなくても良いというところにある。

 

おしまい。