読むこと

 

 

書く人でも話す人でもなく、「読む人」である自分で居ること。

 

 

 

ご馳走様の1日。

 

 

 

良い夢と悪い夢から始まる。

 

悪い夢は長く過ごした元恋人さんが家にやって来て泊まらせてあげるのだが、起きたらトイレに籠っていて、僕が「結婚してくれないと〇んでやる」と喚くから寝られないと言う。夢を見ている僕は、今の僕がそんなこと言うかいなと想う。

 

良い夢は、今好きな人と会うのだが、対面で会うのはなく、どこかの野外のイベント事で見かけるくらいの意味合い。誰もマスクしていなかったから、たぶんどこかの未来なのだろう。

 

過去に対する閉塞感と、未来に対する解放感の対比よ。

所有することに価値を置いてない。

 

軽くシャワーを浴びて身繕い。どうでも良いが、3日程前、仕事場で向かいに居る同い年の女性が、スキンケア(化粧も?)全くしていないと言っていて、まぁそういう価値観もあるわなと思った。カレシも居るらしいし。僕は毎日なんとなく化粧水と乳液くらいはやっているが、なんでやっているかと言うと、おそらく良く見えるようにではなく、無色に見えるようにという公衆衛生くらいの意味。この1分もかからない所作をもったいないと思うほど時間がない訳でもないし。

 

まぁケアしたからと言ってツルツルになるかというと別の話。

 

ほんとうはもう少し早く会場に入ってぷらぷらしようと思ったのだが、もともと時間に緩いから、間に合うか微妙になった。移動時用の本を買う暇がなくて、kindle読み放題で、森博嗣さんのアンチ集中力の本をダウンロード。曰く、自分の考えが独創的ではないのではないのかと思ってしまうのは、反応しているだけで考えていない証拠なのではとのこと。個人的なところ、人は生きているだけで個性的。他の誰も誰かが生きてきたのと同じ空間と時間と環境を再現することができないし。思考の独創性はあえて気にするところではないのではという感じ。

 

僕も全然思考は独創的ではない、というかここを別に問題としていない。

 

そんなことを浮かべながら会場にはぎりぎり間に合う。下見しておいて良かった。間に合うといっても、予約制ではなく、音声作品が流れる時間。

 

ほんと面白かった。僕が他人と面白さを共有したい人で、宣伝することが制作陣にとって価値があると思う人であれば、1つの記事できっちり言語化していたと思う。明日もあるし。

 

ただ、前者については、面白さは共有できないし僕はその人ではないから、僕が面白い作品を面白いと感じるかは分からない。後者については、自然の縁で辿りついた方が面白いと思う。まぁ僕の記事で興味を持つようなことがあるのも自然の縁か。(文体でバレる感も)

 

個人的な思い入れとして、初めて観た演劇作品の制作者。

 

初回の「PIPE DREAM」は死について、次の「SO LONG GOOBYE」は仕事について、「GOOD WAR」は争いについての現実の今を生きている人をインタビューした具体的な人達の言葉が演者の台詞になっている。

 

これらの総括としての「あの日」がテーマになっているのだろうなという感じ。

死は確実に起こる未来の「あの日」だし、仕事は常に「あの日」になっていく生活、争いは過去にも未来にもある「あの日」。

 

今回は、使われなくなって(?)あの日になったかつて造船所だったスペースに、誰かの「あの日」にまつわる物と、作家の作品とが展示され、定時に音声作品が流れる。僕も送っておけば良かったな、この部屋にある物なら、二版前の専門書とか、誰かさんから借りたままになっている「果てのない物語」とか。

 

4階まで上がっていくうちに非現実になる。

 

展示されている物が、また面白くて、電球、理容院の看板、演者の1人が提供しただろうノート(マキシマムザホルモンへの熱意が書かれている、女の子の文字の丸みが可愛らしい)、よくわからないらせん状のラック、郵便ポスト(だが青い)の貯金箱、うさぎの縫いぐるみ(かわいい)。

 

前回東京にあった小道具も置かれてファン冥利。双四画錐の時間を暗喩しているモニュメントは知覚で見てもよく分からなかったが、線香とはんだの組み合わせで熱が加わったはんだがまるくなって下の皿に落ちることで時間の経過を意味させているのかなって。はんだってはんだごてでまるくならなかったっけ。

 

「あの日」の他者性が面白い。たぶん「あの日」の自分と「いま」の自分は自覚的にほとんど他者になっている。況や他者をや。

 

音声作品が始まる。スピーカーがいくつか置いてあって、演者の声が流れてくる。ただ、同じ場所から1人の声が流れ続ける訳でもなく、演者が移動しているのを表現している感。

 

演技が行われている訳ではないから会場内の移動は自由だが、ほとんど誰も移動しない。僕も内向きの椅子に座って最初は聞いていたのだが、あっちに外向きの座席もあって面白そうとなったため、思わず移動した。大阪湾(で良いのか?)の波の動き、カモ、働いている人、宅配屋さんなどの「いま」を外に眺めながら、「あの日」を聞く贅沢な時間。誰だよこんな遊び心がある座席配置したの。ちなみに隣には誰かのあの日の電球が置かれていて、「隣に自由におかけ下さい」という達筆な置き手紙。2人掛けにならないようにする社会的距離と遊んでいる。

 

演出家の人が、もう1人の受付の人に「あの人、いつも来てくれるんだよ」みたいに話している感じがした。帰ろうかなと思ったら、演出家の人がマダムと入口(出口)で話し込んでいて、「ここに割り込むのもな」と思い、タイミングを見計らっているとマダムと2人して外に出たタイミングでもう1人の受付の人に「ありがとうございます」と挨拶をして外に出た。

 

すぐ先に演出家の人が居て、「ありがとうございます」と言うと、「いつもありがとうございます」と言われる。やっぱり常連だからバレているのか。マダムと話し込んで居なければ話すことはあったが、僕は話したい人でもないから、「面白かったです」とだけ言って会場を後にした。

 

話す縁があったら発話しただろうこと。

 

「『争い』をテーマにしているのに全然争ってなくて面白かったです。むしろこの事態と共存している感じです。音声限定だと観劇者の視点を動きとセットにしなくて良くて、聴覚だけだから、声を重ねて問題ない。台詞数を増やせたのはそういうことか。過去作の言葉もあったような。次も縁があれば楽しみにしています。」

くらいか。話すことはあっても話したいことではない。ほんとにあえて話したかったら自然を歪めてもやっていたはず。

 

で、この後が画像のシーン。

 

芸術作品の余韻と唐揚げおにぎりを肴にしてビールを飲む公園。グラウンドでは野球少年がせっせと「あの日」を形成している。そして猫たちは礼儀正しい。毛並みも良いし耳も欠けていて、ついでにご飯を提供する時の看板(文字があると読まずに居られない)まである。

 

つぶやきと私信を書き終えて、そろそろ帰ろうかとベンチから立つと、我関せずとそれぞれ営んで居た癖にわらわらと寄ってくる。一瞬だけ黒猫氏の毛並みを撫でさせていただいたが、提供できるご飯が落としてしまった唐揚げ1つで、人間の食べ物は良くないだろうなと。提供できない限り嘘付いてモフモフさせていただくことはできないから、そのまま帰った。

 

交換を欲している対象に対しては律儀。

これは対人間も然り。

 

 

やっとこさ本題というか、自分の性質論。

僕が「読む人」であるというのは自分で辿りついた呼称ではなく、予言されていた呼称。

 

森博嗣さんのアンチ集中力の本で「思考」とはなんぞやと書かれていて、思考とは答えがないところに固有のジャンプをすることだという話があった。たしかに発想の飛び飛び感はある。でもそんなに考えている気配がない。

 

別に「考える人」でもなさげ。

色々思い付いているだけなような。

 

なんなら、「書く人」でもない。

「書く人」であれば、おそらく何か確固たる書きたいことがあるから、書いたことと自分の存在を同一化できて、それに対する賞賛が嬉しいし、読まれないことが寂しいとかになる(はず)。自分の中に正しい言葉あって、それが表現できるのだという発想はまさに「書く人」。

 

書くことに価値がある。別に良いのだが、インプットのことは意識されない。

読むことは誰でもできるという風潮。単に識字率で文字を追えるということであれば日本人のほとんどは読めるのだろうが、全然読んでないと思う。

 

普通に論理的な文章構造を追うということは国語のお勉強でいう現代文、あるいは説明書、ないし料理のレシピになるが、これをきちんと読める人がどれくらい居るのか。

 

どれも作法があって、読めるということは、文字を追うことではなく、きちんと把握できるのか、現実化できるのかということ。

 

日本語はそもそも全然論理的ではないから、どんな文章もただ単語の意味を追うだけでは意味にならない。いや、今日は晴れです、何人が風邪引いてますみたいな情報なら文字だけで追えるが。

 

読むことが情報のインプットであるというのは、おそらく一般的感覚であって、この情報社会において読むことが問題に上がってこないのも分かる。誰しもインプットは正しくできていると思い込んでいる世界。

 

「読む人」である僕からすると、偏見を交えずきちんと対象を読むってむちゃくちゃむずかしいし、読むことは文字だけではなく、世界そのものをどう捉えるかに係っている。

 

小説も人が書いている言葉も、文字通りに読むと変なことになる。

読むことが意識されないからなんとなく通じている感だが、そもそも人が使っている言葉と、自分が遣っている言葉は一致しない。

 

僕がこれだけ毎日綴れるのは、変な話、自分の体感を、読んだことを書き顕しているだけで、厳密な意味で表現ではないから。正しい言葉なんてある訳がない。そんなものが本当にあったら、とっくにバベルの塔が建っている。

 

で、僕にはずっと好きな人が居るのだが、これも主観ではなく、僕がその人に対する振る舞いを外から読み取って、この人の存在がスキなのだろうなというだけ。実際に隣に居てくれたら嬉しいだろうが、不在でも相手の価値が変わらないのがほんとの好きなのではという読み味。

 

という感じで、自分がもっと自分にとって面白い読み物になりうるのではというのが上限突破であって他人はある意味どうでも良い。ただ、読むのという観念自体が対象(他人も含め)ありきだから、どうあっても1人よがりにはなれない。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

楽になれますように。